見出し画像

東大寺大仏にかけた聖武天皇の思い

東大寺の大仏(以下 盧舎那仏とする)を語るには、奈良時代の天皇、聖武天皇(724年即位~749年)抜きには考えられない。
聖武天皇はどのようにして、またどんな思いで盧舎那仏(るしゃなぶつ)を造ろうと思い立ったのだろうか?
そのあたりを探ってみる。

大仏殿


1 基王(もといおう)が誕生するもわずか1歳でなくなる


聖武天皇は24歳で即位した。父は草壁皇子の子、文武天皇。文武天皇が25歳で崩御したとき、首皇子(おびとのおうじ・聖武天皇)はわずか6歳。彼が即位できる年齢に達するまで、中継ぎの女帝を必要とした。文武天皇の母である元明天皇。そして元明天皇のあとは文武の姉である元正天皇。
この二人の女帝のあとに満を持しての男帝の誕生であった。

しかしながら、このおめでたいはずの聖武天皇の御代は苦悩と波乱に彩られて始まった。
即位後、光明皇后との間の待望の男子が生まれて喜びに沸いたのもつかの間、生後一年足らずで夭折してしまった。


『続日本紀』は天皇の苦悩をこう語っている。

皇太子の病が日を重ねても癒らない。三宝(仏法僧)の威力に頼らなければ、どうして病気をのがれることができようか。そこで慎んで観世音菩薩像百七十七体をつくりあわせて観音経百七十七部を写し、仏像を礼拝し経典を転読して、一日行道を行いたいと思う。

聖武天皇は即位わずか四年で子を病気で亡くす、という人間としての苦しみに直面した。

その皇太子が亡くなった神亀五年九月に『続日本紀』は不思議な出来事を伝えている。

夜、流れ星があり、長さは二丈あまり、赤く光る尾を引き、最後は四つに切れてちりぢりになり宮中に落ちた。

流れ星

                      ↑ イメージです。

不可解な記述ですが、これから起こる波乱を連想させるような出来事といえる。


2 相次ぐ苦難

皇太子が亡くなった翌年、「神亀」を改め「天平」に改元された。
聖武天皇の御代は天平二十年までだが、天平の時代も苦難に満ちていたといっていい。

まだ、二十代の若き聖武天皇にとって痛恨の出来事があった。
当時左大臣として聖武天皇の右腕として活躍していた長屋王(天武天皇の孫)が密告されるという事件が起こった。そして長屋王が藤原家の陰謀に巻き込まれ、自害するという出来事が起こった。

「長屋王が邪道で国家を倒そうとしている」との密告をまともに受けた天皇は激しく動揺したに違いない。

長屋王という政権の中枢を担う皇族がいなくなりはじめて我に返ってみて、「この事件は藤原家の陰謀色が濃かった。それを見抜けなかった。責任は己にある」と深い反省の色をにじませた。

その後、国内は相次ぐ凶作や飢饉、地震。そして天然痘の流行といった難が相次いだ。天然痘のために重要なポストにある官人が亡くなり、聖武政権は人材不足に陥るほどであった。
極めつけは天平十二年の藤原広嗣の乱。


‥‥‥聖武天皇は思慮深かった。
昔から、国が安らかではないのは天子に徳がないから、という考え方があった。

今自分を顧みると、自らの徳のなさを反省せざるを得ない。

『続日本紀』天平四年四月二十一日の詔に

このごろの天地の災難は異常である。思うにこれは朕が人民をいつくしみ育てる徳化において欠けるところがあったのであろう。

という表現がある。

大仏殿より大仏

天平十二年六月十五日の詔に

天命にかなって、国家に安泰の栄をもたらすことができるか考えている

とあり、天皇としての務めを果たしたい、という思いにあふれた表現が印象的だ。


3 一大プロジェクト発表

聖武天皇は考えていた。

自らの子供の親としての苦しみ
為政者としてどのように国を治めようかという悩み
日照りが続き不作にあえぐ民の苦しみ
流行り病に罹り命を落とす病死の苦しみ
乱がおこり社会不安が蔓延する世の中でもある
どうしたら人は幸せになれるのだろうか

これらを昇華し世の中を希望の方向へ向けていく方策がないものだろうか?
朕はこの国の天皇として何を為すべきだろうか?

南大門の像

 ↑ 東大寺南大門の像

そして天平十二年。聖武は心揺さぶられる光景に出会った。河内国大県群知識寺(大阪府柏原市)の盧舎那仏である。廬舎那仏の姿と知識寺を支える人々の姿に魅了された聖武天皇はこれと同じものを作りたい、と思いついた。

‥‥そもそも「盧舎那仏」とは何か。広辞苑によれば

万物を照らす宇宙的存在としての仏

とある。

この目に見える形で人々を幸福に導く偉大な仏をこの世に現したい
人間の苦悩を超えた宇宙の運行リズムの姿を表現したい

それが盧舎那仏なのだ

と聖武天皇は考えた。


4 盧舎那仏造営へ

天皇は天平十五年の詔で次のように呼びかけた。

この事業に参加するものは心からなる至誠をもって、それぞれが大きな福を招くように、毎日三度盧舎那仏を拝し、自らがその思いをもって、それぞれ盧舎那仏造営に従うようにせよ
もし更に一枝の草や一握りの土のような僅かなものでも捧げて、この造仏の仕事に協力したいと願う者があれば、欲するままにこれを許そう


盧舎那仏造営の詔からあしかけ九年。
この国家事業は困難を伴った。

まず銅や金といった原料の調達。
前代未聞の巨大な像に1000度の溶けた銅を流し込むといった危険を伴う作業。この作業で命を落とした人もいた。

盧舎那仏造営に反対する勢力の攪乱。
国内の経済の圧迫。

それでも天皇は鉄の意志でこの事業を完成させた。
この宇宙的存在の仏である廬舎那仏を見る人々に、より高い視点から自分の悩みを見下ろしてほしい、と願ったからである。

人は生きる以上、その苦悩が無くなることがない。

病や死
社会不安や乱
天災
経済苦

私は、聖武天皇の心中をこう察する。

それでも宇宙から見たら仏は存在し、私たちはそれに見守られている。そして、仏とは外にあるだけでなく、自分という存在にも内在するものである、と伝えたかったからである。なぜなら、私たち人間もこの宇宙の一部だから。

・・・・盧舎那仏には、そんな聖武天皇の思いがこもっているに違いない。

盧舎那仏正面

参考文献

宇治谷孟 『続日本紀 現代語訳』 1992年 講談社学術文庫
遠山美都男 『聖武天皇とその時代 天平の光と影』 2007年 NHK出版
鐘江宏之 『日本の歴史三 飛鳥奈良時代 律令国家と万葉人』 2008年 小学館
井上靖 『天平の甍』 1964年 新潮文庫

参考URL

ウィキペディア「聖武天皇」
西山 厚 「大仏はなぜ造られたのか」
NHK for school  歴史にドキリ「聖武天皇・行基~大仏はなぜ作られたか」

いいなと思ったら応援しよう!