學校の役割って
おはようございます。
こんにちは。
クレイアーティストの鈴木冬華です。
夲記事の音声バージョンはこちらです。
今日も午後からスクールなので、午前中に
やることを済ませねば〜!の氣持ちであっちゃこっちゃやっております。
自分にとってちょうどいい勤務時間や働き方などを知るには
やはり地道になんでもやってみるしかないのです。
それを年齢はただの数字だからという声も聴くのですが
今のわたしから言われると???です。
単純明快。早ければ早いほうがいいと思うからです。
さて、本題に入ります。
今スクールで働いていてわたしが実際に感じて思うことです。
”學校ってなくてもいい”
これは結論ではありませんしわたしもわかりませんが
そもそも學校は行っても行かなくてもいいところで
自分がしたい時に何かアクションを起こすことが本来の人間の姿であるはずが
組織の中に入った途端にそれを押し殺し
合わせないといけない。
これに矛盾を感じざるを得ないのです。
例えば、3歳児は昼食後にお昼寝の時間があります。
そして時間になると先生に起こされて無理やり
6歳児と混じって遊ばされる。。。みたいな光景があるのですが
混ざったとて、子供は眠いので寝ます。そうすると、
今は寝る時間じゃないのよ、起きて遊びなさいみたいな誘導をされます。
子供からすると、”なんやねん、それ?わたしはいま、眠いんじゃ!寝かせろ〜!”なわけです。
元々、學校は寺子屋。。。ですよね。
だとしたら、自由でいいはず。
あれしなさい。
これしなさい。
そうするとこうなるよ。
あれしないとこんなことになるよ。
というように煽ることは違うと思います。
(まあ、煽られた経験をしてもしなくても常にバランスをとっているので
そこには必ず學びがありますから心配無用です。)
そんなこと言わなくても
やってあげなくても
子供は自分で体験して氣づきますから。
昔々、食べることで精一杯だった日本人は稲を育てること、
お野菜作りなどには労働力が必要でしたから
そもそも學校でお勉強する子供は、時間に余裕のある家庭のみ。
日本の學校はこのままでよろしいのでしょうか。
社会に出て學ぶことのほうが圧倒的に多いからこそ
學校ではなくて生身の人間を通してたくさんの人に触れてほしいとわたしは思います。
わたしは子供を育てるのは地域社会だとつくづく思っています。
そこには、あの子は誰々の子というレッテルはないはず。
お父さんとお母さんだけで囲まない。
地域全体で育てることで色々なことを肌で感じ体験して成長してゆくものではないかと感じています。
今日も、読んでいただきありがとうございます。
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