お前のバイブルはなんだ…?
年末年始休の穏やかな風が颯爽と吹き抜けて、ぬるい仕事初めとなった。数年ぶりに年明けの0時を神社でひとり過ごした。お詣りを済ませ、足早に家に帰るとオンラインの仲間たちが「おかえり」と言ってくれた。私は彼ら彼女らへの祈りと共に私自身も健康で自由に生きられる様にと祈ったが、決して私は信心深い方ではない。それは上記の様に初詣どころか常日頃から社寺へ行くということすらろくにしておらず、こんな都合の良い私の祈りなど神仏の御許へ届く前にちりぢりになって、東京の汚れた空気にまかれて沈んでしまうのではないかと不信である。それもまた不敬な考えであるかもしれない。なんにせよ、あたたかい部屋で食べる年越しそばは美味い。雑煮もおせちも食べるのを忘れてしまったが、良い正月であったと思う。少なくとも私にとっては。
聖典
続けてきたnoteの投稿はもう一年を過ぎ、誰かに強制されたわけでもないが、毎月なんとか文字を編めていることが私には驚きである。小学生の頃日記をしたためることが出来ず、「あぁ私は自分の内面を表現することが苦手なんだな」と幼心に理解した覚えがある。何を感じて何を伝えたいかが私の中には確かにあっても、それが形に出来ない事の無能感が文字を編むことを遠ざけていた様に思う。そのせいか、現実に字を書くのも下手で文字を綺麗に書けた試しが一度もない。大人になってから“大人のためのひらがなドリル”をやってみたものの何も変わらず、丁寧に書こうと意気込むほど、書き上がる字の歪さに筆と心が折れてしまう…トホホ。ただ同じ頃に、作文のコンクールで賞状をもらい、県の発行する誌面に掲載されたこともうっすら覚えている。大人たちに訂正され倒したし、そんなに大した事じゃないとわかってはいてもあの頃は誇らしかった。文章を読むことが好きでもうまく表現できるかどうかは別の問題である。美術が好きだからといって絵が上手く描けるわけでもなく、音楽が好きだからと言って上手く歌えるわけでもない。それなのに大人は「好きなことを見つけて一生懸命にそれをやれ」と子どもへよく言って聞かせる。私はそれが今更になってテキトーな言葉であったと理解した。何度も言うが好きだからといってそこで特別になれるわけではないのだ。美しく咲くことが出来るわけではないのだ。ただそこで咲けないからといって、成育する根を腐らせる必要も広がる枝葉を自ら切り落とす必要もないのだ。何かを始めるきっかけはなんだって構わない、他人と比べて劣っているのをわかっていても譲れないものを持つべきである。コレも悪い大人の押し付けかもしれない、だがそうして私は自分自身へよく問いかけをしている。「亡くしてはいないか?」「喪ってはいないか?」と。そしてコレを読むあなたへも私は真摯に問いたい。「お前のバイブルはなんだ…?」
線引き
ガキの頃からビデオでアニメを観るのが好きだった。学校を休んだ日の昼間は決まって『楽しいムーミン一家 ムーミン谷の彗星』が流れていた。私にとっての“きっかけ”であったと今思う。BSやスカパーで流れていた古いアニメ達もただそこに流れていただけ、本当にただ“流れていただけ”であったのに、私の引き出しの中にはそれらの断片が無数に散りばめられている。大人になるにつれてサブカルと真剣に向き合うほどにその断片は眩く煌めき、ふとした瞬間に聖典へと成るのである。クリスチャンではない私が聖典と書くのは軽薄かもしれないので、カタカナで“バイブル”と読ませてもらう。バイブルに関してこれからしたためたいのだが、決してそこに宗教的な強い思想や、優劣だったり、深い意味合いがないことをご理解頂きたい。ただキリスト教(カトリックとプロテスタントについて)やナチスについてはどうしても触れなければならないため、日本人である私の一個人としてのサブカルと宗教、また祈りや信仰についての考えを編んでいきたい。ただの妄言なので許してほしいし、別に賢いわけでも宗教学の教養があるわけではない、ただの一般人の戯言である…すまない。
オタクカルチャーへの危惧
厳密には思い出せないが中学三年の頃だっただろうか…いや高校生だったかもしれない…友人が好きだった『HELLSING』というコンテンツに出逢った。OVA版『HELLSING ULTIMATE』に感激した。彼の部屋には漫画もあり読み進む手が止まらず、眼はまばたきを忘れ、血流が早くなる感覚を今でも覚えている。素晴らしいOVAをあげる時、私は必ずひとつに『HELLSING ULTIMATE』をあげている。これは今まで数多のOVAのみならず TVアニメも観、VHS収集に人生を捧げてもなお、そこに変わらず有り続けている。コンテンツ同士を比べるのは大きく間違っているだろうが、私の中のヒエラルキーの頂点が『伝説巨神イデオン』であるならばその下のティアには確実に並んでいると思う。私にとって信じて仰ぐべき方向に『HELLSING』はあるのである。
私がキリスト教についてもっと知りたい、少しでも理解したいと思ったきっかけは、以前付き合っていた人がキリスト教徒で、宗教上の理由で入りたかった学校に入れなかったという話を聞いてとても感慨深かったことが胸に引っかかっていたためである。こうして現代の日本の学校というところまで希釈してもカトリックとプロテスタントが相容れないのであれば、これまでの日本のサブカルの中に映された宗教的思想や描写にもそれが色濃く反映されているはずで、となるとやはり50年前の作品である『デビルマン』をはじめとする天使と悪魔を題材とし、人間の醜悪さや脆さに警鐘を鳴らす啓蒙的な作品や。富野由悠季が『伝説巨神イデオン』の中で描いたリインカーネーションのない美しい死後の世界。もキリスト教だけでなく、さまざまな信仰を作品の中に感じざるをえない。そうした素晴らしい作品の中でも作者の平野耕太自身がクリスチャンである『HELLSING』の宗教的描写は、少なくともキリスト教と全く縁のない日本人が描くものとは大きく違い、多少歪んでいてもそれがホンモノであると悟ったのである。日本のサブカルは本当に雑多に宗教や信仰を混ぜてくるから実に面白い。面白いんだけれど、ただそれらが当たり前だと思うのはちょっと危ういとも思うンだよな。Fateシリーズでは世界の偉大な神や英雄達を“Servant”として使役している。実際インドでは炎上したとかなんとか…まぁこんなのほんの一部でしかなくって、大切なのはそこに思想があるとかないとか関係なしに、日本のサブカルは他国の宗教や文化に影響を受けて作られるものが多く、それらが信じて仰ぐ者の心を傷付けている可能性が大いにあるってこと。「そんなの分かりきってるよシャバ増が」だよな。そうなんだよ、そんなの分かりきってるんだよ!だけど同志たちよ…!!今のアメリカのハリウッドやディズニーを見ていて、恐ろしいと感じないか…!?政党が変わるとDEIを推奨していた企業たちがコロッと向きを変え「多様性がエンタメを殺した」と言わんばかりである。人を傷付けるエンタメを排除して、キャラクターの性別や人種を塗り替えて、代名詞に“フェアリー”を使う様な訳のわからない輩たちに配慮配慮配慮∞…しまくったら結局誰も喜ばなかった。フランスのUBIソフトは信長に仕えた黒人の弥助を主人公にしたはいいものの、「歴史に忠実」を謳いながら黒人が日本人をブチ殺すゲームを作ってしまい、フィクションであるならそこまではまだ良いとしても、弥助を“伝説の侍”だのと英語版wikiを書き換えるような嘘吐きの偽史を元にし、鳥居を半分に切ったフィギュアや、日本の歴史的な文献の画像なんかを思いっきり無許可でコピペして、ひとつも謝罪すらしていない。なんなら日本人を煽ってやがる。ただこれは日本の未来にも有り得てしまう問題だとも思う。否、もうすでに毒されてしまっているとも思う。他国の文化を用いるとき、そこに敬意はあるだろうか?。これは別に宗教に限った話でもなくって人が生きている以上エンタメは必要。絶対に必要である。ただ私が言いたいのは誰も何も傷つかないハッピーうれぴーよろしくも大切ではあれど、ウィットに富むには時にウェットな表現も必要なのである。ただそこに敬意がなければ本当の多様性や包括性は生まれないのだ。ましてやそれはただの侮辱である。今の日本だけで見るとそのバランスは非常に絶妙であると思われる。それも簡単に崩れてしまうように私は勝手に危惧している。なぜなら素晴らしい日本のオタク文化はすでに海外との文化や法律の違いにより壊されつつあるからである。アニメ漫画の違法視聴や、海賊版ガレージキット問題や、未許可のグッズ販売など腐るほど横行している。終わってる。コレで彼ら彼女らは「アイラブジャパン〜マンガ!アニメ!サイコー!」なんて声高らかである。我々日本が戦争で負けたからか…?いいや違う…。いや、もしかするとそれが根本にあるからかもわからない。でも我々日本人も他国の文化を蔑ろにしてきた結果だとも思うのだ。ただ全てのサブカルがそうではなかったとも私はわかっているし、全ての外国人が敬意を欠いているとも思わないし、日本人の浅はかなオタクまがいの文化破壊者もいると思う。ではそんな複雑な神仏や宗教や文化、政治が入り乱れるサブカルの中でも、なぜ私が『HELLSING』についてこんなにも信じて仰いでいるのかを書いていきたい…アツくなってしまったが指が止まらなかったスマン。
何に殉ずるか
『HELLSING』を知らない人の為にあえて私は断片しか残さないので、全容や詳細はめいめいが本編を読んだり、OVAを観て頂きたい。凡庸なアニメを垂れ流すよりも、インスタントなエンタメを流し込むよりもよっぽど有意義な満腹感を味わえるゾ!チェケラ!
私は『HELLSING』に登場するキャラクターの中でもヴァチカン、イスカリオテのユダのメンツが非常に好きである。彼ら彼女らはもともと平野耕太の短編作品『CROSS FIRE』からのキャラクターではあるものの、もとの設定から大きく変わっていない。ヴァチカンの中でもかなり過激派でカトリックに反するモノを始末する機関である。中でもハインケル・ウーフーは面白い役目を担っている。カトリックでは異性装を認めておらず、女性である彼女が男性用の装いをしているのは狂信的な性格にも反するとのことから、ハインケルは両性具有となった。胸もあるし声も女性であるが、アレも付いている。イスカリオテの中で、彼女だけが非常に複雑な設定をもっている。(別に作中その様な話は全くない。ちなみにハインケルの相方である、由美江は『CROSS FIRE』の中で二重人格のシスターだったが本編ではその設定は描かれていない。)その複雑で不安定な設定が鍵でもあるのだ。イスカリオテの最高戦力であるアンデルセン神父に付き従うハインケルと由美江であったが、時にアンデルセンの闘争に耽る様に疑問を抱くことがあった。アンデルセンは「神罰の地上代行者」と名乗り、人であることを棄ててでも神の銃剣となりたかったのである。薄々それが神への信仰ではなく、神の持つ力を信仰しているのではないかと勘付いていた様に感じる。それはアンデルセン自身がマクスウェルへと向けた言葉であったが、おそらく彼自身もそれが間違っていることをわかっていながら、抗えず苦しんでいたのだと思う。それでもハインケルにとっては心の拠り所であった為、アンデルセンの最後まで付き従ったが、目の前でアンデルセンの死体をウォルターと大尉に踏み躙られ、それに逆上した由美江もバラバラの肉片にされてしまい、自らも瀕死の状態に陥るもの、その怨敵ナチスから情けをかけられてしまう。これほど屈辱的なことはないだろう。しかもそのウォルターはもとはと言えばヘルシング機関の人間である。プロテスタントでもありナチスでもある、ロートルがいいかげんで無理な改造を受けたために、余命も幾許もない死にかけの半人半妖になんの信念もなくかけられた慈悲は、ハインケルの本来信仰すべき神を忘れさせるには十分であったと思う。アンデルセンの後を追う様に、ハインケルもまた闘争に耽け、復讐心により動き続けるのであった。レコンキスタにより市民も吸血鬼もまとめて虐殺した最高指揮官であるマクスウェルも呆気なくグール共に食い殺される、「実を結ばぬ烈花のように死ね!! 蝶のように舞い、蜂のように死ね!!」と言い放った彼自身がそうなってしまうとは…。こうしてイスカリオテのメンツは悲惨な運命を辿るが、めいめいの信仰するベクトルは同じでありながら、ただ己が肉体をどう使うかが違うということで絶妙にすれ違っていくような“人がわかりあう難しさ”を感じて仕方ない。我々オタクもそうだよな…同じモノが好きだからって分かり合えるわけじゃあないんだよ。生活の中にでもちょっとした信仰はどこにでもあって、いつでも争いの火種になりかねない。からあげにレモンをかけるかかけないかでさえ意見が割れるんだぞ?変な話だよ本当に人間は…オレはレモンかかってる方が美味いと思うが。
そういう争いが起こりうるとわかっていても、めいめいの信仰は持っていなくてはならないと私は思っているし、それを持っていない人間を正直言ってツマラナイとすら思う。過激派なのかもしれない。「〇〇が好き〜」と馴れ合うレベルじゃあなく、汚れた手で触れさせない様な気高さが必要である。同じステージに上がらせない、語らせない風格が必要である。そういう意味では私も狂信者であり、『サブカルと心中する覚悟はあるか…?』の中でも書いたように普通の人の生活や幸せを捨てても、恐ろしいことだがやはり殉ずるべきであると再認識している。(私自身の話)
ピンとこないままに
『HELLSING』の魅力といえば、やはり英国王立国教騎士団“ヘルシング機関”(プロテスタント)と、ヴァチカン直属の“イスカリオテ機関”(カトリック)と、ナチス残党の“ミレニアム”の三つ巴の闘争であり、どの軍勢もブレないクールさを持っているのである。最終決戦前の残存兵力はナチスの吸血鬼軍団が572名。ヴァチカンの狂信者達が2875名。ヘルシングとつよ〜い奴らが3名。これで戦争が拮抗する、いやなんならヘルシング機関の圧倒が見られるんだから面白い。3勢力のその強い核にはやはりめいめいの信仰があり信念があるが故だと思う。フィクションの中でありながら彼ら彼女らはちゃんとプロテスタントでありカトリックでありナチスなのである。作者が日本人であるにも関わらず、キャラクターの中に日本人らしさなど微塵も感じないのである。当たり前だがこれほど素晴らしいことはない。我々はホンモノの三つ巴の戦争を観ることができ、その渦中で興醒めすることがないのである。日本人用に作られた子供騙しの生半可な宗教戦争ではない。我々現代日本人にはピンとこないはずの宗教戦争がピンとこないままここにあるのだ。それが実に良いのだ…。吸血鬼がどうだナチスがどうだの…そんなことはどうだってよくって、どうしたってカトリックとプロテスタントが相容れないことが当たり前に描かれていれるのが良いのだ。ナチスもカトリックも一緒くたにまとめてレコンキスタしようとする信心深いプロテスタントが良いのだ。女、こども、老人だろうがロンドンをなんの気無しに焼き払う非道なナチスが良いのだ。そんな地獄の中で結ばれる吸血鬼と人間の儚い愛によるイカした仇討ちが良いのだ。彼ら彼女らは日本人とは違う。全く違う。強い殉教心は日本人には理解出来ない思想である、だからこそコレがホンモノだと肌で感じさせてくれる。日本人が作る最高傑作の“忠実なフィクション”である。史実としての歴史をどうこう言ってるんじゃあない事だけは改めて言わせてもらっておく、実際に起こる虐殺や宗教戦争を肯定しているんじゃあない。なんの罪もない人々が殺されるなんて…そんなのあっていいわけがないに決まっている。ただそれらをフィクションの中でそのままに描いていることがカッコいいのだ。旧アニメでナチのメンツが出てこなかった時の落胆たるや…それはもうアニメや表現の負けを認めているのと同義である。そんな『HELLSING』を誰も求めていなかったし、結果、アニメの制作会社もテレビ局も視聴者も作者も誰もいい思いをしなかった。だからこそ『HELLSING ULTIMATE』が妥協なく描きあげるきっかけになったという点においては旧アニメにも感謝しなくてはならないかもしれない。とにかくオレが信仰する『HELLSING』は完璧な形でアニメ化された、もうこれ以上求めるものはないのだ。強いて言うのならば、やはりアンデルセンの声は野沢那智さんの声であってほしかったなぁと思う。若本さんも素晴らしいんだがな。本当はもっと書きたい事がある魔弾の射手リップバーンの約束の死とかセラスとベルナドットの心震える仇討ちだったり、ただの人間でありながらヴァチカンにもナチにも怯まなかったヘルシング卿の高潔で美しい様だったり、とにかく魅力のあるキャラクターが多すぎるのが『HELLSING』のいいところであるな。これだけ印象的なキャラクターが多く登場しながらそれに負けないストーリーと展開があって、終幕も実に見事である。何より単行本全10巻というのがまた気持ちが良いではないか…別に私は長編の漫画も好きであるが、現代の漫画にはない潔さがカッコいいんだよな。そしてなんと言ってもこの『HELLSING』は海外での評価が非常に高いのである。『ヴァンパイアハンターD』や『獣兵衛忍風帖』と同じ様に日本人はなぜ知らないの?と疑問に思うほど評価が高い。それはやはり『HELLSING』の中の宗教観があながち間違っていない(間違いが少ない)からではないだろうか?宗教や信仰心のクールさと恐ろしさを前面に描くのではなく、あくまで吸血鬼と人間の闘争の土台にあることで、物語世界の信憑性がグンと高まっているのである。
私のための信仰
私はクリスチャンではない。何度も言うが信心深い方でもない。けれど私が想う神(人・モノ)に祈ることは出来る。なんの宗教でなんの神を崇めているかなどは、本来重要ではない様に思うし、たとえ同じなにかを信仰していたからとて、群れ集う理由もない。本当に大切なことは祈りのわけを考えるところにある。膝をつき、両の手指をクロスさせ、首を垂れ、「どうか…」「そうあれかし…」と祈るとき、どうにもならないことをわかっていても、彼ら彼女らはそうするしかないのである。それがどんなに尊く、清いか理解ろうと歩み寄ろうとすることが重要なのである。これを読むあなたはどうだろうか…何かに祈る夜はあるだろうか。信じ仰ぐものはあるだろうか。私はビデオ文化が消えゆく事に憂いていながらそれも仕方ないとも思っている。ただの一般人の私が愛するビデオ達に出来る事なんて、ただ見護るくらいである。愛するものの為になんの力にもなれない、なんの役にも立てない、これほど哀れなことが他にあるだろうか…?見護ると言っても、見れば見るほどに生命のテープは薄れてゆき、次第に記録した映像は消え、残るのは私の中のメモリーだけである。観るためのビデオデッキやテレビデオさえも、いつ動きを止めてしまうか私にもわからない。文化そのものの消滅のカウントダウンは確実に始まっているのである。私がテレビデオにビデオテープを挿入し、再生ボタンを押す時、「あぁ…どうか映ってくれ…」と祈るしかない。ノイズが走ると共に音と映像が浮かぶたびに安堵する。たとえばそれは仕事にくたびれて帰宅する夜に2、3日前に買ったアイスクリームが冷凍庫あることを思い出したように、たとえばそれは路地裏の年老いた猫がニャアと鳴きこちらへ近付いてくるように、たとえばそれはとなりに眠る恋人の寝息に平穏を齎されるように、憂いに沈む夜がそこらじゅうにあるのならば、安らかな陽の光もそこらじゅうにあると私は思いたい。そうであってくれなくては私のような精神弱者は暗闇を歩けない。眼を瞑ってもあたたかな光が導いてくれると信じたい。けれどそれがいつどんなかたちで現れるかは私にもわからない。いつかこの頭の中の靄が晴れて、こうしてだらだらと文字を編むこともなくなって自分自身のことでうだうだ悩まなくなる日が来るのならそれが一番ではあるが、サブカルを信仰している限りやっぱり孤独と向き合わなくてはならず、結局根源の暗闇を歩くことは変わらないのだろうなとも諦めてしまっている。せめて共に暗闇を歩いてくれる人がいれば、いくらかは楽になるだろう。だからこれを読むあなたよ、暗闇に彷徨っていたならどうか私を想ってほしい。私もまだ見ぬあなたをまぶたの裏に想い歩きたい。私のためにあなたへ祈りたい。どうかひとりだと嘆き、孤独に沈まないで。そう祈っている限り、私もきっとおそらくたぶんひとりではないはずだから…はずだから…。