名古屋観光に迷える旅人へ~尾張 寺社散歩のススメ
「名古屋は飯が旨い」ということは全国的に有名かと思いますが、いざ名古屋飯を味わおうと旅行に行くと、観光スポットが少なくて、現地で「どこ行く?」となるのが"あるある"だと思います。
ずっと食べ続けるわけにもいかないし、ご飯とご飯の間にどこに行ったらいいかもわからない。そんな方向けに、名古屋周辺の興味深い寺社を紹介します。
歴史が好きな方、また「ちょっとくらいなら歩いてもいいよ」という方は、ぜひこれらの寺社を巡ってみてください。
熱田神宮
ここは外すわけには行かないでしょう。
実は熱田神宮は、伊勢神宮に次いで日本で二番目に尊い神社です。
天皇の位を象徴する「三種の神器」のひとつ「草薙の剣」を祀っていることで有名ですね。
ご祭神は「熱田大神(あつたのおおかみ)」と言い、この神さまというのは草薙の剣に宿っているアマテラスオオミカミのことなんだそうです。
さらに、熱田大神と一緒に、ヤマタノオロチを退治した際に天叢雲の剣(あめのむらくものつるぎ・後の草薙の剣)を見つけたアマテラスの弟であるスサノオ、草薙の剣を使って東征を成功させたヤマトタケル、尾張氏の先祖であるタケイナダネとミヤズヒメが祀られているという豪華ラインナップです。
草薙の剣がこの地に祀られたのは西暦113年のことだと伝えられていますので、この神宮の歴史は何と1900年以上!
広くて清浄な空気の境内を、砂利を踏みしめる音を聞きながら歩いているだけでも清められるので、日々の生活で枯れてしまった気がチャージされてきますし、何といっても拝殿(お賽銭を払ってお祈りするところ)周辺から見える本宮がとてもふつくしい。
さらに熱田神宮の中には、空海が植えたと言われる大楠や、織田信長が桶狭間の戦いに勝利した際に奉納した「信長塀」、1630年に寄進された「佐久間灯籠」など、数百年、あるいは1000年という時の流れ=歴史ロマンを感じられる樹木や人工物があります。
それぞれの名所の場所は、ホームページの「境内案内」をご参照ください(以下からご覧いただけます)。
佐久間灯籠はこれだけ大きいのに、私は熱田神宮にはじめて行ったときには、灯籠の存在に気がづきませんでした。そのくらいひっそりと建っている奥ゆかしい灯籠です。
「境内案内」の35番の位置にありますので、一目見てくださいね。
歴史を感じられるこれらの樹木や人工物に加え、草薙の剣を奉安していた土用殿などの摂社・末社も興味深いですし、宝物殿と草薙館(刀剣を中心にした博物館)もあります。
個人的には、本宮の奥にある、アマテラスオオミカミの「荒魂(あらみたま・神さまの活動的・躍動的な面を表すパワーのこと。これに対して、神さまの静的な面を表すのが和魂)」を祀っている一之御前神社や、その周辺の生命エネルギーにあふれる木々がすばらしい「こころの小道」、湧水が清々しい「清水社」は絶対に体験してほしいと思っています。
樹齢千年を超える大樹があるということは、熱田神宮は雷やその他災害にも強い幸運に恵まれた場所だということです。
幸運に恵まれたこの地で、日本人は1900年を超える長きにわたって祈りを捧げ続けてきました。
いや、もしかしたら弥生、さらに遡って縄文の時代にも祈っていたかもしれません。
そのような先人たちの営為に思いを馳せることができる人は、きっと心が豊かな人ですので、素敵な旅ができることでしょう。
アクセスは、名古屋駅(JR中央本線)→金山(名古屋市営名城線左回り)→熱田神宮伝馬町駅(熱田神宮の正門に近い駅です)までで約20分。栄駅からでしたら約15分ほどでつきます。
名古屋駅周辺または栄で名古屋飯を食べた後に訪れ、ゆっくり巡って2時間は経ってしまうと思います。
加えて、熱田神宮から徒歩10分ほどの場所には「断夫山古墳」という東海地方最大の前方後円墳もありますので、時間に余裕があったらぜひ見に行ってみてください(古墳に登ることはできません)。
楽しみながらお腹を空かせたら、次の場所に移動してまた名古屋飯を楽しめますね!
・・・ここからはマニアック情報・・・
熱田神宮の由来にはいくつかのパターンがありますので、それをまとめてみました。
①『古事記』と『日本書紀』
・・・
ヤマトタケルは父の景行天皇から東征を命じられた。
出発前に伊勢神宮にお参りした際、叔母のヤマトヒメから草薙の太刀を受け取った。
その後東征を成功させ、妻にしようと約束していたミヤズヒメ(尾張の国造の先祖。尾張氏は熱田神宮に関わる)のもとへ戻った。
そのときミヤズヒメは生理中だったにも関わらず夜は二人で共に寝た(ただ添い寝しただけかもしれませんが!)。
そして、草薙の剣をミヤズヒメのところに置いたまま、伊服岐(いぶき)の山の神を討ち取りに行った。
そこで山の神の魔術によって病気になり、そのまま亡くなってしまった。
・・・
草薙の剣が熱田神宮に納められた経緯は書かれていませんが、尾張氏の先祖であるミヤズヒメがそのまま納めたのでありましょう。
ちなみに熱田神宮の由来ではありませんが、『古事記』におけるヤマトタケルのパートは、血が噴き出るような派手なシーンもあれば、父からの愛情を得られないことに対する内面の葛藤が描写されるなど、ストーリーと奥深い人物描写がとてもおもしろいです。
②『風土記』(「風土記逸文」の「尾張国」より。『釈日本紀』からの引用)
ヤマトタケルが東征からミヤズヒメのところに戻って家に泊まった夜、厠に行った際に腰につけていた剣を桑の木に掛け、忘れたまま宮殿に入った。
剣を忘れていることに気づいて取りに戻ると、剣が光っていて神々しく、取ることができなかった。
そこでミヤズヒメに「この剣は神の気がある。大事に祭って私の形見としなさい」と言った。
そのため社を建て、その地の名前を取って熱田神宮とした。
③『尾張国熱田太神宮縁起』(以下の文章は『すぐわかる日本の神社』という本からの引用です)
『風土記』と『尾張国熱田太神宮縁起』の方は、熱田神宮に草薙の剣が祀られるようになった経緯を、『古事記』や『日本書紀』よりは詳しく記していて興味深いですね。
大須商店街周辺①・・・万松寺
食べ歩きができることで有名な大須商店街。
みたらし団子(ここのみたらし団子はほのかに甘いたまり醤油につけて食べるという個性的なみたらし団子です)や鯛焼き、お店の感じから矢場とんの元祖かなと思わせるが実は姉妹店の「昔の矢場とん」、またイタリア料理にブラジル料理その他個性的な食べ物が楽しめます。
もしあながた私のオススメした通りに熱田神宮にいるのであれば、熱田神宮伝馬町駅から名城線右回りに乗って大須商店街にほど近い上前津駅までは約10分です。
ここで紹介する万松寺(ばんしょうじ)は、その大須商店街の中にあるという個性的なお寺です。
正直、私はこの万松寺を初めて見たときに「お寺風のゲーセン」だと思っていました。
そのくらい寺の固定概念を覆しているお寺で、入り口でも奥でもデジタルサイネージが万松寺のことを宣伝していて、さらにお賽銭は電子決済できます。
写真の通り『ドラゴンボール』の神龍のようなオブジェもあり、実に「かぶいている」お寺です。
何といってもこのお寺のおもしろいところは、織田信長の父、信秀の葬儀が行われた場所だということです。
信長の有名なエピソードに、父信秀の葬儀の際、荒唐無稽な姿でやってきては、抹香をつかんで仏前に投げつけた、というものがありますが、その舞台がこの万松寺だと言われています。
それだけエキセントリックな伝統のあるお寺ですから、もうこの見た目でも驚きません。
ちなみに、1570年に信長が越前の朝倉を攻め、浅井長政の裏切りにあって逃げ帰るとき、信長をねらった鉄砲の玉が、信長が持っていた万松寺の干し餅にあたって命拾いしたというエピソードもあります。
のちにこの話を聞いた加藤清正が、万松寺の不動明王を「身代わり不動」と命名したとか。
この不動明王にお参りする際には、ぜひ電子お賽銭でどうぞ。
大須商店街周辺②・・・栄国寺
ここは少し歩きます。歩いてもいいよという方はお付き合いを願います。
栄国寺は、万松寺から南へ約900m、徒歩12分ほどのところにあるお寺です。
創建年1665年と伝えられるこの栄国寺では、日本史の暗い部分に触れることができます。
このお寺周辺の場所は、江戸時代には千本松原と呼ばれていて、そこには尾張藩の刑場がありました。
1612年頃、徳川家康がキリシタン禁令を発しました。その後、尾張藩領でもキリシタンへの取り締まりは厳しさを増していき、1664年にはこの刑場で、隠れキリシタン200余人が処刑されたのです。
現在の栄国寺には処刑場の跡があり、そこには処刑されたキリシタンたちを弔うべく、いくつもの仏像が置かれています。
自分の信じたいものを信じた結果処刑された人々や、大切な人を処刑で失った人々の胸の痛みはどんなものだったでしょうか。
また、栄国寺は大規模な処刑が行われた翌年の1665年に、2代目尾張藩主徳川光友によって建てられました。
キリシタンたちも苦しみましたが、光友公もまた、人々の命を奪ってしまったという罪の意識に苦しみ、キリシタンたちの霊にゆるしを乞うためにこのお寺を建てたのではないでしょうか。
やるせないことではありますが、これもまた人類の歩んできた道。
光も闇も受け止めることが、精神のバランスを取るためにとても重要ですから、目を背けず、見つめましょう。
栄国寺の本堂に付随して切支丹遺跡博物館(開館時間9:00~17:00)もあります。私が行ったときには17時を過ぎていたため入れなかったのですが、興味がある方は見てみてください。
大須商店街周辺③・・・洲崎神社
大須観音駅から大通沿いを北西に約750m、徒歩11分ほど歩いたところに、貞観年間(859-877年)創建と伝えられている洲崎神社があります。
私は栄国寺から歩いたので、徒歩25分くらいかかりましたが・・・。
ま、御蔭で良い運動になりお腹も空きました。
こちらの神社には、スサノオとその妻のクシイナダヒメ、サルタヒコ(導きの神さま)とアメノウズメ(芸能の神さま。サルタヒコの妻)などの神さまが祀られています。
wikipediaによると、洲崎神社の由来は以下ということです。
日本語の音に強い呪術性を感じていた当時の人々は、この地の地形が洲崎(すさき)だったので、素戔嗚(スサノオ)を祀ったのだと考えられます。
ここだけでなく、丸の内駅周辺にある、家康を祀った東照宮の隣の那古野神社(なごやじんじゃ)もスサノオを祀っていますし、熱田神宮もスサノオを祀っており、名古屋周辺でのスサノオの人気の高さがわかります。
しかし、彼らはなぜ、わざわざ出雲(島根県)という遠いところからスサノオを連れてきたのでしょうか。
1712年頃に成立したと言われる『和漢三才図会』によると、尾張の国号の由来は以下のようだと言います。
なるほど。スサノオが剣で八岐大蛇の「尾」を割って、その中に草薙の剣があった。だから「尾割り」で「尾張」になったんですね。
しかし、なぜ尾張という土地が遠いところにある出雲と関連するのでしょうか。
熱田神宮の章でも確認しましたが、草薙の剣はもともとは伊勢神宮に納められていました。
ヤマトタケルは英雄で天皇の息子ですが、とはいえ天皇ではないわけですし、草薙の剣が天皇の位を象徴するものであるならば、ミヤズヒメから剣を回収して天皇のもとで直接保管するなり、伊勢神宮に戻すなりすればよかったはずです。
これがなければ天皇が天皇であることを証明できないのですから、普通手元なり都の近くに置きたいと考えて当然なのではないでしょうか。
でもなぜか、草薙の剣は都(当時は奈良県桜井市あたり)から遠く離れた熱田の地に置かれました。
それだけでなく、草薙の剣を持つことになるヤマトタケル自身も、父である景行天皇から疎まれ、都から遠くの敵を討伐することを次から次に命令されて都に帰ることもできなかったのでした。
何度も繰り返しますが、天皇が天皇であることを証明する草薙の剣、それが都から約140kmも離れた場所に置かれるようになったというのは、どうも不自然に思われてなりません。
おそらくこの裏には、当時の新興勢力である天孫族と、日本に古来から住んでいた出雲族の抗争が隠れているのではないでしょうか。
天孫族は出雲族を東へ東へと追い込み、自らの勢力圏を拡大していきました。
それがやがて「国譲り神話」として語られるようになったのですが、慣れ親しんだ国を譲った出雲族の人々の心境はどんなものだったのでしょうか。
それと対応するように、草薙の剣を発見したスサノオと、その草薙の剣を持ち、天皇から追いやられる形で東へと向かったヤマトタケルの物語があります。
天孫族に追いやられた出雲族の人々は、自分たちの神であるスサノオが見つけた草薙の剣とヤマトタケルが辿った運命に、自分たちの姿を重ねたのではないでしょうか。
おそらく尾張の地には、「尾張」という国名が名づけられるよりももっと前に、天孫族によって東へ東へとじりじり押されてきた出雲族が住み着き、スサノオの信仰を守ってきたのでしょう。
やがてその人たちが「尾張氏」になり、天孫族系のアマテラス信仰に、祖先が崇拝していたスサノオの信仰を混ぜていったのではないか・・・。
以上は私の考察、というか想像です。
楽しむためには想像も大事です。想像は脳にとって快感ですから。
旅は、目の前に見えているものを見るだけでも十分に楽しめますが、寺社などの歴史的な名所に行く場合には、そこに居た人・関わった人の想いを想像すると、もっと楽しむことができます。
想像することで、私たちは大いなる歴史の流れにつながることができます。
そして、想像すること、さらには過去とつながることを促すのが、「旅」というものだと思うのです。
だから旅は、やめられませんね。
さて、洲崎神社でお参りを済ませたのが18時頃。
もちろんこの後はまた、名古屋飯を食べに行きましたよ。
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