INFJ | MBTI が好きな理由 ①
ここ一年ほど、MBTI にとてもハマっています。
MBTI とは? というお話はすっ飛ばして、今回はどうして MBTI が好きなのか、その理由について書いてみたいと思います。
ちなみに私は、INFJ を自認しています。
とってもとーーーっても長い一人語りになってしまったので笑、気になるところだけでも覗いてみてくださると嬉しいです💐
ネットの海に投げ入れるメッセージボトルのようなイメージで書きました。どなたかと共有できる何かがありますように。
人は本当に 「人それぞれ」 だということ
まずは少し、昔話から。
中高生の頃の私は、「教室にいる」だけのことにとてもしんどい思いをしていました。別にいじめに遭っていたわけでも、友達がいなかったわけでもありません(むしろ周りにはいつも恵まれていたと思います)。
ただ、いろんな考えや感情を持った数十人の同い年が「一つの箱」に押し込められていることに、たまらない息苦しさを感じていました。学校という環境に、いつまでも馴染めませんでした。
頭の中にはいつも「同級生の相関図」がありました。いわゆるスクールカーストのような権力図でもあったし、個人の相関関係でもありました。あの人はこの人が苦手なのかな、気にくわないのかな…… そういうことがすぐにわかってしまい(本当に正しかったのかはわかりません)、みんなの頭上を飛び交う「矢印」に圧倒されました。
だから、どうにか誰にも嫌われないよう、悪目立ちしないよう、いつも気を張っていて、みんなと同じように、おかしなところは見せないように…… と、今思えばそうして自分を押さえつけていたのは他ならぬ自分自身なのだけれど、とにかく毎日がしんどく、サバイバルのようでした。
この一文に心底共感して、わんわん泣いたことも憶えています(ちなみに句点が多いのは吃音のある村内先生の台詞だから)。
「人は本当に人それぞれ」
本当の意味で、そのことを理解できたのは二十歳を過ぎてから。すとんと腑に落ちるように納得できたのは、大学を卒業して数年経ってから。
だから10代の頃あんなにも息苦しかったのか、とようやくわかった気がしました。
みんなそもそも違うのに、個性も、性格も、なにもかも違うのに、どうにか「教室」という一つの空間でやっていかなくちゃいけないから。だからあんなにも苦しかったのだと。靄が晴れるようにわかりました。
「今思えばあれが MBTI にハマったきっかけなのかもしれない」と思うのが、この動画。
有名な 16personalities 診断はずっと知っていて、興味があったので、偶然見ました。
自分でもなんでやねんという感じですが笑、なんだか胸がいっぱいで、ちょっと泣いてしまいました。たぶん、いろんな性格の、個性豊かなクラスメートたちが、のびのびと自由に共存している世界を見た気がして、嬉しかったのだと思います。
本来、人はこんなにも違うんよなあ、それがあたりまえで、それぞれの魅力や個性があるんよなあって。ふしぎな感動に包まれました。それが、今にして思えば MBTI との出会いでした。
この動画を見ながら、なんだかあの頃、別の星からきた人のような、同じ言語を使っているはずなのに言葉が通じない相手のような、遠い存在に感じていた同級生の顔が何人か浮かびました。
人は本当に人それぞれで、人によって考え方や世界の見え方は本当に違う、そういうことを体感的に知っていたから、MBTI という考え方の枠組みに魅了されたのだと思います。
そりゃあしんどいよ〜、これだけいろんな人がいるなかで、みんなと上手くやっていこう、誰にも嫌われちゃだめなんて思いつめていたら、そりゃしんどくもなっちゃうよ〜と、10代の自分をゆるしてあげられるような気持ちにもなりました。
* * *
「すべて自分のせいではないと夢見る」
中高生の頃、とくにこれといった理由もないのに毎日息苦しさを感じていたような「人が躓かないところでわざわざ躓いてしまう」ところが私にはあります。少なくとも、主観の上で。
なんだかみんなが「当たり前」にできていることが私には「当たり前に」できないというコンプレックスが常にありました。
たとえば、繁華街を歩き回っただけで頭痛がしてしまうとか。大学の講義室や食堂が、ただ人が多いという理由だけで苦痛だったとか。「当たり前の」日常を過ごしただけなのに、日が暮れる頃には身動きがとれないほど疲れてしまうとか……
HSP(Highly Sensitive Person)という概念に出会ったのは大学生の頃で、これまで感じてきたいろいろな「説明のつかないしんどさ」に、一つの答えが与えられた気がしました。
けれど、とくに始めのうちは「でもしんどいのはある程度みんな同じなのでは?」「HSPという言葉を免罪符のようにしてもいいの?」ともやもやが拭いきれなかったし、同じくHSPの友人たちと話していても(当たり前ですが)しんどさの分野や度合いには違いがあって、結局、孤独感に変わりはありませんでした。
HSPという概念に出会えたことは私にとって大きな意味がありますが、それですべてがすっきりしたわけではありませんでした。
HSPであってもなくても、それぞれにそれぞれの地獄がある。人の苦しみは他人からは見えない。頭ではそうわかっていても、なんで私はこんなに生きるのが下手なんだろう?と、周りを見渡して途方にくれました。
はやく「大丈夫」になりたい。どうしてこんなに生きづらいの?と、自分でも生きづらさの理由がよくわかりませんでした。
大好きな曲に、こんな歌詞があります。
この、「すべて自分のせいではないと夢見る」という部分。
まさにこの言葉が、私が INFJ という性格タイプを知ったときの気持ちととてもリンクしています。
とくに心理機能を詳しく知ったとき、これまでの色々がクリアに見えるような気がしました。
たとえば10代の私を苦しめた、なぜか誰が誰に良くない感情を持っているのかわかってしまう、目の前の相手の嘘や悪意にすぐ気づいてしまう(繰り返すようだけど正確さについては不明)ということは、第一機能 Ni(内向的直観)と第二機能 Fe(外向的感情)の組み合わせを知ることで、すとんと腑に落ちました。
INFJ という性格タイプはもっとも少なく、世界でも1~2%しかいないといわれていることも、「5人に1人といわれているHSP」を知ったときには感じなかった納得感、もっといえば安堵のようなものをおぼえました。ああ、だからいつもマイノリティのような感覚があったのか…… と。
他にも、たとえばすぐに思考が壮大になって「人生は〜」「人間は〜」「生きるということは〜」とか考え出してしまうのは、どうやらINFJあるあるらしいことだったり(笑)
誰かといるとその人の感情が自分の中に流れ込んできて自分自身の気持ちがわからなくなってしまうという、これまで気づいてすらいなかった自分の特徴に思い至ったり。
地に足をつける、現実的かつ具体的に行動する、「今ここ」に意識を集中する、とにかくチャレンジしてみる…… といった私の人生の苦手分野・課題は、どうやら Se(外向的感覚)が劣勢であることからも説明がつくようだったり。
(そうそう、劣等機能が日常生活でどんなふうに表れるのか、すごくわかりやすくて面白かった動画を貼っておきます。日本語訳はないのですが。INFJは8:50〜。そうそう!そうなの……!と自分を見ているようでした)
とにかく。そんなふうに MBTI を知ることで、よかった…… 私が「おかしい」わけじゃないんだ。ただ、そういう、ちょっと人数の少ない性格タイプをもっていただけなんだと、救われた気持ちになりました。
私は「当たり前のことが当たり前にできない出来損ない」なんかじゃなく、ただ、そういう個性をもっているだけなのかもしれないって。
これまで感じてきた息苦しさ、「普通に振る舞えなかった」失敗や挫折が、必ずしも「自分だけの落ち度」ではなかったのかもしれないと、何かにゆるされるような気がしました。
INFJについて知れば知るほど、ひとりじゃないんだと安心できました。
また、ようやく自分自身を知り、人生のスタートラインに立てたような気持ちになりました。
もちろん MBTI はたんなる骨組みでしかありません。隠れ蓑に使ったり、私や誰かの個性を押し込むことは間違っています。ただ、自分をより公平に見られるようになり、人生のコンパスを手に入れたような気持ちになりました。
* * *
人は “より自分らしくなる” ことしかできない
とても好きな言葉があります。
最近になって、ようやく理解し始めたことです。
どうしてかはわからないまま、生きづらいと思い続けてきた26年間。ずっと、どうして私はみんなのように「普通に」振る舞えないのだろう、なにもないところで躓いてしまうのだろう、と悩み続けてきた私が見つけた一つの答えでもあります。
思い出すのは、泉谷閑示さんの『「普通がいい」という病』より「主観」と「客観」のお話です。
(ちなみにこの本、本当におすすめです!)
曰く、「主観」こそ本来十分に信頼できるもの。「心」に由来する主観は、「頭」由来の客観よりはるかに優れた洞察力をもっているためです。
では、「信頼に足る主観」と「独りよがり」であることの違いは何なのか。
なんだか逆説的というか、私にとって目から鱗の発想でした。人を「独りよがり」にさせる「主観の純度を低下させる不純物」こそ「客観」なのだといいます。
つまり「主観 ←ー→ 客観」という二次元的構造ではなく、円のような螺旋状になっていて、主観を突き詰めた先に、ぽん!と抜けて到達できる次元がある、というのです。
ここでの主観を「本来の自分」、客観を「普通(ちゃんとした大人なら、まともな人間なら、女性なら、男性なら…… etc.)こうあるべきという姿」として考えると、通ずるものを感じました。
本音や「本当の自分」を押し殺して、ノーマルで歪みのない平均値をめざすのではなく、ユニークでオリジナルな自分を貫いていった先に、到達できる何かががある。そして、そうしてこそ、真に他者の多様さにも寛容になれるのではないか。そんなふうに思ったのです。
MBTI における心の発達には、「スペシャリスト」から「ゼネラリスト」へ移行していく段階があるといいます。
「人は、心の全体性を目指しすべての心的機能を統合する前に、特定の心的機能をまずは専門的に発達させる」、「まずは自分の指向が明確でその指向の表現が安定しなくてはならない」。
ようするに、心の利き手である主機能や第二機能を十分に使いこなせるよう洗練させたうえで、苦手とする機能を含めた、心全体の発達にとりくんでいく、という順序だそうです。
この考え方は、先の「人は “より自分らしくなる” ことしかできない」という言葉や、泉谷先生の主観と客観、「螺旋状の変化成熟過程」のお話とも重なります。
つまり、まずは自分自身を知り、自分の個性を磨いていくことが大切で、その先に真の普遍性があり、寛容で生きやすい世界に通じているのではないかと思うのです。
そして MBTI という枠組みは、自分の心と向き合う上でとても大きな助けになると感じています。
このトピックの最後に、大好きな動画を貼っておきます。
映画やアニメ、物語の中の INFJ(とされている)キャラクターが集められた動画です。
なんだかとっても烏滸がましいのですが笑、本来の自分が属す世界に感じられるような、大切にしたい価値観が反映されているような、そんな心地よさに満たされました。
アスランやダンブルドア先生、アラゴルンやアシタカ、オビ=ワン・ケノービ…… かれらと同じ性格タイプなんだ!と思うと、奮い立たされるような勇気が湧きます。
ジャン・バルジャンやエルサと同じなのは深く納得しました。かれらの物語が本当に大好きで、いつも他人事とは思えないから。そしてタダシの強さと優しさは私の理想です。
いろいろと不便なことも多いけれど、私は私であることが嬉しいな、心からそう思わせてくれるこの動画が大好きです。
* * *
まだまだ書きたいことの半分にも満たない(!)のに、こんなにも長くなってしまったので、ひとまずここで終わりにします。
またゆっくり続きを書きます。
もしもここまで読んでくださった方がいれば、本当に嬉しいです。ありがとうございました🌿
23.6.21.追記
よければ②も覗いてみてください💐
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