読んだ本『セクシー田中さん』
本を読んでいちばん悲しいのは、終わりが読めないままになる、ということだ。
故人の作品を未完のままだとわかって読み始めるなら、「ここで終わるのか!」と悶えることには変わりないけど、覚悟はできているので諦めもつく。
一方、続きを楽しみにしていたのに、突然その楽しみが奪われることもある。
『セクシー田中さん』は、その悲しい作品の一つになってしまった。
主人公の田中さんは、コミュニケーションに苦手意識を抱えているアラフォーの会社員だ。
田中さんと同じ会社で派遣社員として働く朱里ちゃんが、田中さんがベリーダンサーであることを偶然知ったことから物語が進んでいく。
田中さんと朱里ちゃんの描写がリアルで、共感するところがたくさんある。
二人のような、年代が違っても話せる相手が欲しくなる。
二人がお互いに影響を受けながら変わっていく様子や、今後どんな道を選ぶのかを楽しみにしていたのに、続きを読むことはもうできない。
笙野はふみかさんと結婚するのか、進吾は転職先でうまくやっていけるのか、三好さんは、小西は、笙野のお母さんはどうなる。すでに描かれているエピソードだけでも気になることはたくさんあるのに、結末を知る機会は永久に来ない。
それが残念で悲しくて仕方がない。
しかもそれが作品のドラマ化がらみのトラブルに関係しているらしいことがやり切れない。
日本テレビと小学館それぞれから発表された報告書も読んでみた。
私が気になったのは、「ドラマを作るプロデューサーや脚本家は、この漫画をどう解釈していたのか」だ。
企画書では、このドラマは「ほっこりラブコメディ」とされている。
恋愛は物語の展開に関わっているし、笑えるのもこの漫画の魅力の一つだと思うけど、それがメインではないと私は思う。
田中さんと朱里ちゃんが、お互いに影響し合って「生きづらさ」から少しずつ自由になっていく様子が主題なのだと思って読んでいる。
なのに日本テレビの報告書には、
とあり、当初はその要素がなかったように書かれている。
もしドラマ化の企画にシスターフッドの要素がなかったのだとしたら、本当にこの作品を読んだのか自体を疑ってしまう。
朱里ちゃんに関するエピソードでも、解釈に疑問を感じる記載があった。
経済的事情で弟の四大進学を優先させると親から暗に言われたことは、朱里ちゃんのキャラクターに大きく影響しているのに、単に制服の問題だと意味が全く違ってしまう。
「アラフォーのベリーダンサー」「かわいさを自覚している若い派遣社員」など表面的なキャラクターだけを取り出して、全く違うラブコメディにでもしようとしていたんだろうか。
そもそも恋愛要素はテレビドラマには必須なんだろうか。
別の作品の話になるけど、『ミステリと言う勿れ』でも、原作にない風呂光さんの片想いエピソードが入っていたのは不要な付け足しだったと感じた。
風呂光さんは、整くんの言葉で自分の存在意義に気づき、刑事として一歩成長する。そこに恋愛感情は関係ない。
もう少し遡ると、『鹿男あをによし』もドラマでは藤原くんが女性にされてしまっていた。
私は好きな作品がドラマ化されると観る。その時は、原作のイメージを壊さず作品がそのまま実体化したようなものだと嬉しくなる。(池本さん役の尾上松也さんとか!)
もうこんな原因で、結末が読めない作品が現れないことを願う。