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次の日に即同人出すことについて

極まったコンテンツ消費文化の中で、一体どれほどの速さで「次の手」が打たれるのか、それはもはや恐ろしいほどだ。

現実と虚構の境界が曖昧になッてるとまでは思わんが、表現の自由が叫ばれるこの時代に、ぼくらは一体どこに立っているのだろうか。こんなことで借りて悪いんだが、ヘッダ画像を有志の方からお借りしていることをお知らせしないわけにはいかない。どういうことか見ていきましょう。

まず、事の発端が昨日の出来事だとする。ある巨大な影響力を持つ人物が、その立場を突然手放したとしよう。その一瞬はまるで時計の針が止まったかのように多くの人々に衝撃を与えたとしよう。そしてその余韻がまだ消えないうちに、すでに新たな波が打ち寄せているのを目にした時、ぼくらは言葉を失わざるを得ない。

たとえその余韻が感動的であり涙を誘うものであったとしても、その次の日には別の現実が押し寄せる。しかも、それは極めて特異な形で表現されていることに驚きを隠せない。具体的に言うならば、前日までその人物を称えた声が、翌日にはその人のイメージを借りた成人向けの漫画として現れる。これが現代の消費文化の一端を象徴しているとしたら、ぼくらはそのスピードに対してどう反応するべきなのだろうか。

ぼくは、漫画という文化が好きだ。それは、ぼくにとっては表現の自由の象徴でもある。だからこそ、表現の自由を守るために立ち上がるxxxxxxたちの声を無視するつもりはない……いや、SNSで先鋭化した連中は除こう。

同時に彼らが提起する問題のすべてを無条件で受け入れるつもりもない。表現の自由とはどこまでも自由であり、誰かがどこかで不快に思ったとしても押しつけてはいけないとぼくは信じている。

一方で成人向けの同人誌がいなくなったばかりの人を題材にすることについては、どうしても違和感を拭いきれない。

ぼくらが直面しているのは感情と経済が交差する場所だ。人々の感情が商業的に利用される一方で、作る側はその自由を存分に行使している。ここに倫理の問題が絡むとしたら、それは一体どこから始まり、どこで終わるのだろうか。

例えばぼくはこの状況を考える時、二次元と三次元の区別について頭を悩ませることになる。漫画やアニメはどこまでもフィクションであり、そこに描かれるものは現実ではない。

しかしぼくらがそれを消費する際、どこかでその境界を曖昧にしてしまうことがある。それは、感動した瞬間もそうだし、次の日に即座に出てきた同人誌を見た瞬間もそうだ。

ぼくが恐れているのは表現が過剰に商業化され、その過程で感情が無視されることだ。特に感動的な瞬間や大きな出来事の後には、ぼくらは少なからず時間を持って、それを消化し、理解しようとする。

まさにこれこそが消費だ。

しかし、現代のコンテンツ消費はその猶予を与えない。感情の余韻が冷める前に、新たなコンテンツが押し寄せ、それを消費するようにと求められる。

ぼくらは果たして何を消費しているのだろうか?単なるコンテンツなのか、それとも感情なのか。そしてその感情が商業的に利用されることで、どれほどの倫理的な問題が生まれるのか。

あるいなくなった人がその瞬間だけでなく、その後もファンたちの心に残る存在だったとしよう。そのキャリアや生まれた感情は、時間と共に消えていくべきものではない。しかし同人誌のような形でそれが即座に消費されることに、ぼくはどこか違和感を覚える。

もちろん同人文化は日本の誇るべきカルチャーの一つだし、ぼく自身もそれを楽しむことに何の抵抗もない。

しかし何かがあまりにも速く消費され、それが商業的な目的のために利用されるとしたら、ぼくらはそのスピードについていけるだろうか。

ぼくはこの問題に対して結論を出すつもりがない。ただ即座に同人誌が出ることについて、ぼくらが何を感じ何を考えるべきなのかがわからないだけだ。

感情の余韻を大切にするのか、それともそれを次の消費の材料として使うのか。その選択は、ぼくら一人ひとりの手に委ねられているのだろう。

日本の文化において、表現の自由はすべてであり、それが守られるべきことに異論はない。しかしぼくらがその自由を享受する一方で、どこかで誰かが何かを失わされている状態が強要され続けているんじゃないのという疑問も消えない。

感情が商業的に利用される現代において、ぼくらはどれほどの余韻を持ち続けることができるのだろうか。

そしてこの余韻を持つこと自体が、もはや贅沢なことなのかもしれない。次から次へと押し寄せるコンテンツにぼくらの感情はどう対処している?即座に出された同人誌を手に取る瞬間、ぼくらは何を感じ何を考えるのか。そしてその感情はどこへ向かうのか。

ぼくらは現代のコンテンツ消費文化に飲み込まれているのか、それともその一部として楽しんでいるのか。

いや、もはや完全にどのようなコンテンツを出せばどのように反応されるのかが完全にオートメーション、ルーティーン、型、スキーム化されていて、生き物の感情という感情はもはや薄利多売への導線の意味でしかなく、なぜ壊れないのかわからない橋の上を歩かされているだけに過ぎないんじゃないのか。

その境界は非常に曖昧であり、どこに線を引くべきかもわからない。ぼくが知っているのは、次の日に即座に出された同人がぼくらの感情に何らかの影響を与えているということだ。そしてその影響がどこまで続くのかは、まだ誰にもわからない。

感情の余韻が消える前に新たな消費が始まる。

その速さにぼくらはついていけるのか?それともどこかで立ち止まって考えるべきなのか?

ぼくらの選択はどちらにせよ表現の自由を守りながら、その一方で倫理的な問題をも考慮しているはずだ。こうして疑問を洗い出したらそこに疑問が残るだけで何らかの意味があるんだろう。でもそれが果たして可能なのかどうかは、誰にも答えが出せない問題なのかもしれない。

現代の消費文化の象徴なのだろう。ぼくらはそのスピードに驚きながらも、どこかでそれを当たり前のものとして受け入れてしまっている。そしてその受け入れがぼくらにどれほどの影響を与えているのか、ぼくらはまだ気づいていないのかもしれない。

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中村風景
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