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俺なりのワカチコ

近年ゆってぃを本物のコメディアンだと思うようになった。この所詮視聴者様レベルの上から目線をなんとかそう見えないように文にして説明する必要がある。ヘッダ画像をお借りしています。

視聴者のくせによ(自分に対して)

まずぼくは笑いとか芸人とか相方とか平場みたいな単語が究極的に嫌いで――嫌いでといいますか所詮視聴者程度の存在が気軽に発せる単語ではないと思っていて――、何をおいてもコメディと言ったりコメディアンと表記したりする。

斯様な単語が視聴者側に浸透してしまったのはコメディアン側のあけっぴろげさにもあるだろう。本来裏側を見せないのがショービジネスの矜持だったんだろうが(映画浅草キッドの舞台装置からもそれはうかがえる)、赤裸々に何かを発露する芸、みたいに客側に見せる幅がガンガン広がってきた。

例えばぼくは今でこそ平時の竹山に含むところはないが、例の日テレ系ワンパ番組で突然いかりだす、みたいなのでデビューしたらしいと聞いた時には、人を不快にすることを芸としていた時代を侮蔑した。当時ガキで興味なくてよかったと思える。

また後年桑波田りえなる女が同じ舞台上で衣服を脱いで衆目を集めようとしたらしい事実を同時に見聞きしたことについても同じことを思ったが、こちらは伊集院がラジオのバックナンバーでかつて話していた「女の性は笑いには変わらない」理論を交えながらそのうちお話したい。

このように多かれ少なかれ視聴者様は偉そうにコメディを評価してしまう。ぼくだってM1が放映されて脳がそっちに切り替わってさも含蓄あるような人を装ったことを言い始めるけど、その業界を経験していないなら俄にすぎない。浅草キッドを例に出したけど、上記の意味では柳楽優弥でさえ素人だ。俳優という意味では熟練者だろうが、コメディの世界を映画で演じただけであればそれは映画における表現技法としてのコメディのプロにすぎない。

まだビートきよし役を演じた土屋伸之の方が場のプロだったといえる。こと浅草キッドにおいては。ただ浅草キッドとはコメディを舞台にした映画なわけで、土屋伸之は映画表現においては素人としての参加だった。演技が素人と言っているのではない。

彼なりのワカチコ(出川効果)

ゆってぃが再評価されたのは(素人のくせになにが再評価だ)出川効果だと思う。

つまり出川が若い頃は(出川が若い頃をリアルタイム世代として知っているわけではないので資料をもとにした想像で話す)、エンタメの世界で一旗挙げてやろうと息巻くギラついた痛い人みたいな、歳相応の扱いを受けていたことだろう。

しかしながら次第に経験キャリアその他が積み上がってもなお何でもやる、同じクオリティで人を笑わせられる実力は人徳に変わった。昔からこうだったのか。それを地道に続けていただけだったのか。当時の評価は間違ってないけど間違っていたんだな、と世間が思った。もちろん歳を重ねて(年齢で人を判断することの愚かさをぼくは声高に言いたいのだが、便宜上このような表現をさせていただく)温和になったり、結婚という巨大なライフイベントを迎え、女にギラつく感じは消えた(あっても番組から求められるものを再現するに留まる、商品としての)のかも知れない。

ゆってぃも同じで、若い頃はコメディを必死に消費させる番組の構成物としてのみ扱われており(制作側からも視聴層からも)、その立場に迎合していた。立場がないから迎合するしかない。

しかしながらその姿は滑稽に映るというよりは、出川の若い頃のようにギラついた主体性がない危うげなものだったのだろう。出川にも言えるだろうが、いわゆる女の人向け雑誌の嫌いなランキングで上位になる男とは、今で言う(言うのだろうか?)脳に精液が詰まってそうなランキングと言い換えても差し支えないだろう。壮年の女の人はそうは見ていなくても、その雑誌を手にする若い女の人がそう思ってもおかしくはない気がする。あるいは場合によりその逆もまた然りとなるだろう。

また当時ぼくはレッドカーペットみたいな「大量消費型」ショー・ビジネスの世界を薄汚く情けない存在だと理解してい、何らかの宣伝のために来たおのぼり共(つまり数合わせのタレントや俳優のことだ)が本来はその宣伝をすることのみを当該番組への出演の便益として利用してるだけであり、なぜかそいつらが採点者などという高位存在と化し、意味不明にいる3人の司会が採点結果をいちいち発表する、そして大竹の妻が画面に表示されたそれをいちいち口で言う、というガチで謎の形式だったことも当該番組を蔑む理由の一つだったんだろうと今では理解する。

数多の出演コメディアンたちは先も述べた通り単なる消費財でしかなかった。とにかく一人でも多く、いや、一つでも多くの芸を画面上に映し出すことしか制作側は求めていなかった。それがあのベルトコンベアだ。用が終わったらだらだらと自己芸術の評価を受けたがらずに、また語りたがらずにさっさと去れ。

もちろん自分の芸についてべらべら言い添えるぐらいなら芸の中ですべて表現しろとしか思わないけど、コメディアンにとっては一秒でも多く画面に移り、その他の登壇者と関係性を築くことが出世街道に直結するのだが、それを許さない番組構成が彼ら/彼女らの行く手を阻んだ。しかしながら経験不足で短絡的だった当時のぼくは(もちろん今でもそうだ)、そこに迎合するゆってぃたちを蔑んだ目で見てしまったのは前述の通りだ。

俺なりのワカチコ

それでもゆってぃは頭にバンダナを巻き、キラキラした洋服を着て登場する。それが十年単位で変わらないのだ。

また当時(初めてゆってぃを認識した当時)のぼくは、いわゆるすべり芸を芸と見做したくなかったのだろうとも思う。ダンディ坂野がそれの頂点を極めてい、かつて店長すら勤めていたバーガー屋のイメージキャラクターとなって返り咲いたことがその象徴だった。

それを見て、滑るというフレームワークをコメディ(演じる側)市場は取り込んだのだと思った。ゆってぃはその一例だと。そしてやはりその考えは浅はかだった。

ゆってぃが細かいことは気にするなと言うのは、見た人に細かいことを気にするような人生を送ってほしくないからなのだろうと最近マジで思うようになった。

ゆってぃが舞台上で表現していることは1事例だ。「気にするようなこと」が起こった=ひどい目にあったけど、気にするな。

ゆってぃは80年代アイドル(80年代にぼくは死んでいたので想像だ)のようなBGMとともに登場し、「ゆってぃこんなんだから、もうなんも気にしないの!」という。

そして自分が受けたひどい目を紹介し、ひとしきり突っ込んだ後に、突っ込んだ文句とは別に「強烈~~~~~」という。

そしてちっちゃいことは気にするな、それワカチコワカチコという。

人生において割と崩れ落ちそうな事象を体験した。言ってしまえば、この部分が創作でもなんでも良いと思うし実際それで全然構わないんだけど、めちゃくちゃリアルに感じられる。後輩にかばってもらえたけど、ゆってぃはこの衣装を着ていないときは本当につまらない、電車内でJKにゆってぃばれしそうになったが、ゆってぃがiPodなんて買えるわけがないと馬鹿にされて事なきを得た。人によっては自信喪失してもおかしかない。でもゆってぃはそれを見て笑ってくれと体現している。

そしてこれは劇作家とか構成作家としての素養だ。それがなきゃ書けない内容だ。だから別に嘘だろうがなんだろうがいい。

笑われるんじゃなくて笑わせろ、とはコメディの世界を知らなさそうな武田鉄矢のクソ偉そうな迷言だ(ナインティナインに対して発した)が、笑われるんでも笑わせるんでもそこにいる観客が笑ってるなら同じだ、とは誰が言ったか忘れたが(江頭2:50?)こちらの方が今では名言であるように思う。といいますか名言という単語がもう何か違う。定説でいいんじゃないだろうか。名言なんていう何か発話者を褒め称えるような物言いはしたくない。コメディの世界に必要ないと思える。

ゆってぃはひどい目にあった事象を一旦受け止める。そしてそれは体験として「強烈」だったと認める。だけど小さなことは気にするな。これは導かれる答えはワンパターンではあるものの、人生のPDCAだと言える。

これくらいのダメージならまた立ち直れる、悲しいけど受け止めてまた歩き出せる。その指標を造るための効果測定をしている。

ぼくは社会にはびこる前例主義とか判例主義、事例、パターン化、フレームワークを単なる猿真似、金儲けのための消極的脳死行動だと情けなく感じるけど、こと人生をやり過ごすためにはゆってぃが必要だと思える。


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