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ぼくがユーロビートを聴く理由


ヘッダ画像はカバー社の二次創作ガイドラインに準拠して映像内からお借りしています。

ぼくは今年選ぶ最強の歌をすでに2つ見つけており、その一つがこれで、もう一つがこの半分公式みたいな歌なので紹介しづらい(ぼくは海外の人がやりがちな本来の姿形の造形を大きくフォトショ加工みたいなのして歪ませる行為が尊厳破壊に思えるので苦手だ)のだが、どちらも海外の歌である。

複雑だが厳密には海外の歌、海外向け歌である。正確には2023にリリースされた歌を、2ヶ月前ぐらいに加工してリリースされた歌なので今年扱いをしている。

歌とは情報量が多いので、ぼくは一気に受け取ることを望まない。素晴らしく負荷がかかり、心が囚われてしまうからだ。だからこういうデビューシングルとか大きすぎる節目に出てくる歌は絶対にいきなり聴かないようにしている。そしてこれはAdventというチーム全体で歌っているものだし、2回目とか以降なら「受け止め」の準備が整うのかわからないが気持ち的にいいのかもしれないなと
自分語りなのでマジでどうでもいいけど自分のことながらなぜだかさっぱりわからない。

後者は奇しくも今回話す、冒頭で紹介したIrysがいる(いた)HOPE=(Council)=Promiseと地続きの世代であるAdventがリリースした歌である。こんなことは初めてだ。

MVにはこういう単語まで登場する。他にもBLOOMとか不知火フレアとかCHAD CHATという単語とか。この前退社した社員の人までカメオ出演している。これまでアイリスが関わってきた人々やイベントとかも。だから後で言うように集大成に思える。

トランス、ダンス、ユーロビート、何でもいいんだけどどうしてこういう電子系歌はいろものとは言わないがいわゆるアニソンとか電波みたいなのと同列に扱われるのだろう。いま紹介した歌手だって、普段はこういう文学的情緒にあふれたロックを歌っているが、これをロックというのは多分あれでEDMに属すのだろう。

果たしてCarbonated Loveはそのように恐ろしく意味の深い歌(歌詞もそうだろうがここで言及、といいますかぼくのページで言及するのは必ず歌の旋律や構成だ)を歌える歌手がリリースした歌であり、その集大成であるように思える。

カバーに所属してからは一定の”教え”的なものは受けるんだろうけど、それまでは歌を習ったことがなくてこれっていうのもちょっとおかしい歌手だと思うわけです。どこに出しても恥ずかしくない歌声を持っている。この前マリリシャがFNSに出たけど、カーボネイテッドラブのぱらぱらが社会現象にでもなれば美少女無罪ぐらいのパンチ力は出せるから紅白すら狙える歌唱力ではあると思う(悲しいことにテレビとは見栄えも気にするのだ)。

日本メンバーの大空がメンバーシップ限定でよくやっている(2回)ような、仲間のオリジナル歌の振り付けを覚えるライブストリーミングを他のメンバーにもやってもらうとか限定以外でもやってもらうとかでなんとかカーボネイテッドラブの踊りを世間一般に浸透させられないだろうか。それができれば一発ある。でshortとかあっちのSNSとかでもがんがんマーケティングする。

MVの集大成の話に戻る。というのも近年では当たり前にはなってるけどつべがプラットフォームなどになるなどと思われなかった頃には止め絵を一枚なんとか使ってPVにとりあえず置きました、というようなもので充分だったんだけどCarbonated LoveはMV仕立てになっていて物語があるだけでなく踊ってすらいる。

MVの監督が振り付けまでしている。カナウルはカバーの他のMVも手掛けるべきである。そのためにカナウルを囲い込み、ムービー編集的な部署を立て、カナウルがしなくていい諸作業をこなす部下を付けてやってほしい。

この踊りという成分はユーロビートをいまの時代にリリースする上で外せないものだったようにも思える。このようなUGCを生んでいるためである:

下の人はm.o.v.eだ。こちらも全盛期を知らなくて申し訳ないが

ぼくはユーロビートトランスぱらぱらなんでも良いのだがいま言ったようにその全盛期を知らず、またこのMVのコンセプトとなっているイニシャルDも基本情報程度しか知らないのだが、当時はいわゆるUGCみたいなものがなかった。SNSがないからですね。

だから(想像だけど)渋谷に集まる。同じような格好をして集まる。そして同じような踊りをした。マジでいわゆる当時を振り返る的な映像を物心付く前とかに目にして、歴史的事実に準拠してしゃべってるだけだからいちいち整合性など取らない。大枠が合ってれば、あるいは近ければそれでいい。

それぐらいのちからをユーロビートは持っていた。だから今の時代ではころーなありがとうなこともあり、といいますか普通にSNSが常設されてしまい、人々は常駐してしまうようになった。そこで誰とも対面せずすべての者と対面する、すべての用事を済ませるようになった。テレビに移りに行って発言する必要がなくなった。

ユーロビートにはこのような力がある。言ってしまえば

  • めっちゃかっこいいコード進行

  • 泣けるような完成性の高いメロディ

  • クソ速いBPM

  • 何かと戦って勝つような物語のあるMV

  • セクシーでかわいくていい女

というまさしくいにDが載ってたようなヤングマガジン然とした世界観にユーロビートが非常に合いやすいのかもしれない。だけどこのところ、このようにユーロビートがリリースされたりはしてこなかった。少なくともぼくの周りでは。ぼくは非常に視野狭く自分の好きなものしか見ないようにはしている自覚はある。

その影響下、ぼくもこのように今、普段しないUGCを思いっきりやっている。一番良いと思える、といいますか一番客を引けると思える、一番素晴らしいと思えるアイリスの表情をかなり時間をかけて選んだ(一番だの2番だのしょうもない)。


ユーロビートとはいったが、もちろんユーロビートにはそれぞれあり、別にどういうものが出されても良かったとは思うがきちんと緩急がある。つまり2番の冒頭
Look at what we've done, we're too extremeのあたりはコードが一瞬消えるのだが、その後肝心な場所でBASSが復活する。これはいわゆる日本的なコンポーザー感がないと成立しないベースの入れ方であるように思える。

というのもユーロビートとは直上でちょっと言ったようにコード進行がすべてであるとぼくには思えるためです。ぼくが普段聴いているロックなりガレージなりグランジなりパブロックなりオルタナなり(ああ、自己が聴いているものにいちいちジャンル分けしてカテゴライズする行為はなんて虚しいのだろう?)それ系の派生はコード進行からの解放をとにかく目指したがる。C G Am Bbとかしたがる。何に縛られていると思うのだろう?と思いながら、ぼくも同調圧力で変なコード進行を使わなければならないと思っていた時期があった。情けない

プロテスタントつまり体制への反発、上記コード進行ならカノンのそれをなぞるみたいなこどもバイエルみたいなことなんてやりたくねーぜ!という概念が発揮され、商業としてのロックだろうが概念としてのロック(自己実現のためにストリートや地下室等で鳴らされるロックだ)だろうが万人受けなど到底目指さない歌ばかりつくられることにロックをつくり聴く側としてめっちゃ不思議に思っていた。

カーボネイテッドラブのコード進行は美しい。

採譜する環境に今いないので全部Cキーにするが、F G Am F G Eのイントロ、
Am G FGC、Dm Em F E / Am G FGCA Dm E CGAm F G Am のAメロ、
F G E Am F Dm EのBメロ、
いきなり転調……

歌とはコード進行がすべてであるとぼくにはどうしても思える。それもいま言ったように奇をてらった進行ではないものである。

でも、手垢がつきすぎてその中で新しい歌なんてもう作れないのかもしれない。だからぼくが聴くような人々はふざけてるような進行にしたがるのかもしれない。

だから今、ユーロビートを聴けて、その基本に忠実なきれいなメロディの洪水にさらされ、身体が正しいコード進行を求めたのだろう。ぼくはスピッツの夢追い虫がスピッツの歌の中でも2番目に好きな自負をしていた(技術とかじゃなくて好きみたいな不確定なものであれ、いちいち順位付けすることのほうがアホっぽいと今でこそ思っているので2位もくそもないが)のだが、その完成性によりやはり眩しすぎて普段は聴けない。

さっきみたいに節目の歌というよりか、ぼくが好きすぎて勝手に神格化してしまい、安易に聴けなくなった。これは常々言っている照井利幸が解散前に残した言葉である、歌を単なるBGMとして処理してしまう世界が悲しい、という言葉にぼくが囚われ続けているだけなのかもしれない。

だがカーボネイテッドラブを聴いた後に、きれいなコード進行の歌が聴きたくなり聴けた。歌が歌を助ける。


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中村風景
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