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現代スモーキン・ビリー学概論

ぼくはBキーで歌を造るのが好きな時期があって、そのことを思い出しながら歌をシャッフルで聴いてたら次にかかったのがスモーキン・ビリーだった。

スモーキンビリーは言わずもがなBキーであり、AメロだけD、ギターソロ2回目の冒頭だけC#になるといういかれた構造をしている。BLANKEY JET CITYのシーサイドジェットシティと似た構造であり、リリースはこっちが先です。ただ比較してるわけじゃなく、同時期に似た層から支持されていたであろう2者の共通項を知ることで微笑ましくなる。つまりめちゃくちゃに褒めている。このページ自体が、スモーキンビリーを褒め称える内容となっている。


メジャーとマイナーの説明

阿部のギターの特徴として、普通のコード進行の定説に従うのであればそこはマイナーでしょ?となる部分に遠慮なくマイナーをつけない、つまりメジャーで弾く、パワーコードでマイナーとメジャーの差異化をする1音をあえて弾かないということすらせず、メジャーで弾く。

これはリリィでいうところのコーラス、こめかみ指でをD B A Gと弾いているところ、本来ならD Bm A Gにするところをそんなことはしない。

エレクトリック・サーカスでEm B C Gとする、Em Bm C Gとはしない……といいたかったがさすがにこれは言いがかりか。つまりメインキーに対するその悲しい音の対比位置にくるマイナーをマイナーで表現しないということだ。

コードについて補足しなければ初心者向けのページではなくなってしまうことに気がついたが、このページは初心者向けでも玄人向けでもない。普通のコードC~BとはそれぞれCと読んだり、Cメジャーと読んだりする。メジャーとは普通言わない。メジャーにセブンスを入れる時にCメジャーセブンとか言うんだけど、C7とCM7は全く違うのでクソ面倒だ。

なぜかは知らんが生き物が生まれる前からあっただろう音階という法則において、メジャー和音は非常に楽しい音に聴こえるという価値観をわれわれ知的生命体は持っており、マイナー和音は悲しく聴こえるというわけわからん価値観を持っている。だが、勝手にそう聴こえるんだから意味不明とか言ってる場合じゃない。

スモーキンビリーのイントロ

スモーキンビリーのイントロは言わずもがなBだ。歌の構造、といいますかこのイントロでのBの役割を考えるとここのBはBmでもおかしかないはずなのだが、その根拠はB D E Aという進行にあり、Cキーで表現するならAm C Dm Gとなり、その常識をぶち破っている。

上野のベースは阿部のギターがBだろうとBmだろうと対応できるようになっていて、調整役というのか大黒柱役というのかグループでセッションで歌を造ることの意義を感じる。

そもそもこんな歌をアドリブで造ることがTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTの恐ろしさであり、そもそもスモーキンビリーの歌性すらどこかに消し飛ばしてしまうほどの主張がある。

といいますかあべは人生の上で歌という場に自分を関わらせるのであれば、俺が一番目立つという目標がおそらくあったとぼくは偉そうに思っているので、あべのファンの人からみたらそんなことねーよふざけんなと言いたい部分はあるだろうことと思う。吉川晃司との話からもそれは伺える。阿部と吉川の広島という絆は惜しくも阿部の晩年にかなったことだった。

あべのギターで始まる歌の多さもそれを語っているような気がする。ステージではくはらのカウントで始まるのがほとんどだが、後期カルチャーのあの意味不明なイントロはあべの表現性というのか独自の世界のようなものを端的に顕しているのではないだろうか?

サンダーバードヒルズも中盤はほとんどあべのギターソロみたいな歌だ。歌部分は消え、くはらのトランペットとTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTの歌としては世にも珍しいテクノみたいなエフェクトが入ったりする間、聴こえるのはあべのラテン系みたいなギターソロである。ロデオ・タンデム・ビート・スペクターの最終日あたりではこのラテン色が強すぎて、そういえばベイビー・スターダストのリリース前後の長いバケーションでイタリアだかスペインだかにいってなんたらを堪能したとか音霊で言われていた。

スモーキンビリーのギターソロ2回目C#

スモーキンビリーのイントロにメジャーとマイナーどっちにすべきかみたいな逡巡はあったのだろうか?それはわからない。

歌とはあとから全体を再考することもできるからだ。ぼくはこの歌で一番とんでもない部分は、先にも話した通り2回目の間奏だと思っているので、この部分を存在させるためにイントロをメジャーにしたのではないかとまで思っている。奇しくもそんな歌とぼくが自分で作った歌のキーが同じことを暗く微笑しながら悦ぶしかない。

3回目のコーラスが終わり何が来るかと思った視聴者の耳には、それまでのBキーではないC#キーが飛び込んでくる。もはやパーティーピープルである。愛という憎悪なんてどこに行ったんだ?別になんにも憎んでなくない?というほど底抜けに明るい。

THEE MICHELLE GUN ELEPHANTで底抜けに明るい、といえばベイビープリーズゴーホームとかリリィとかバードメンとかキラービーチとかストロベリーガーデンとかI was walking & sleepingとかあるかもしれないが、奇しくもスモーキンビリーの次のシングルであるGTが明るいように感じる。カサノバスネイク以降はGTを覗いてメジャーコードの歌は壊滅してしまったのではないだろうか。

これを書いてて思いついたことであり、書くつもりはなかったんだが後期からは失われてしまったものである。せいぜいガールフレンドがメジャーしか使ってない歌だが……あれはDキーでありながらGキーに思わせるというこれもまた恐ろしい技術を使っている歌であり、そこでもGは実はGM7だったりする……

太陽をつかんでしまったも1音目で音の暴力かというように耳に入ってくるFmのちからで当然Abキーの歌だと思わせておいて実はCmの対偶であるEbであるという耳の錯覚を利用した歌であり、この2つは同時期に作られた。もっとも、メロディを作ったちばはそんなこと一切考えてなく、後天的に中途半端に音階に知識を持つぼくのような中途半端なリスナーが勝手に混乱してるだけなのかもしれない。それはそれで幸せな錯覚なのでぼくは満足してしまっているのだが。

C#メジャーの暴力性はたった2小節(正しいカウント仕方がわからん)だけでこの歌の最上部まで盛り上がりを持っていくちからを持っているので、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTがイントロをいっそBにしちゃえば?とか思って変えたのだとしてもおかしくない。だがそれは誰の口からも語られてはいないのでわからない。

Aメロ

Aメロはいきなり転調するがBmつまりDである。BだったのがDになるのはよくあるけど、一切のクッションを挟まずにB D E A Bmという形で始まる。しかもこの音はどうやって弾いてるのだろうと楽器を持っていない頃にこの歌と偶然出会った時に思ったんだが、ベースがよくわからん。なんかすげえ邪悪な音が出てるというのだけわかるが、パワーコードではなくはっきりとマイナー調の悲しさをものすげえ音量で弾いているということだけしかわからん、と普通のリスナーだったぼくは思った。

うえのがここで弾いてるのはたった2音だけでしかなく、つまりBとそれをスライドさせて下げてくのと、前小節の一拍前あたりでBbを弾くことだけだ。こんなん思いつくのがまずおかしいし、思いついて実行に移せる胆力も恐ろしい。彼らの歌には彼らが恐ろしい数聴き込んだレコードの歌群が基盤となっているから、似た歌といいますか表現がどこかのUKロックにあるのかもしれないが、誰かを暴力的に愛しているが愛しすぎて不遇になって怒りで潰してしまいそうだという歌のAメロに取り入れようと思えるだろうか。

スモーキンビリーの唄われてること

ぼくは歌の話をするとき散々言ってるから毎回書いてあれなんだが、歌はメロディと楽器とコード進行とかリズムとか実際の音を構成する部分がすべてであると思っているので、何かしらの言葉が歌という楽器において発されているのであればその内容はなんでもいいということを言っている。つまり歌詞はマジでどうでもいいというものだ。

世界の恵まれた連中、つまり運良く自分のコンポーズした歌を発表する場を与えられた者、他人の作った歌を歌う者に限らず、まるでそういう決まりでもあんのか……?と心配してしまうほど恋と愛について歌う。いい歌だと思ってそれが唄われていると悲しくすら思う。

THEE MICHELLE GUN ELEPHANTやBLANKEY JET CITY、Spitzはそういうことがなかった非常に珍しい人たちだった。中にはテーマがあるかもしれないが、市場に出回ってる連中ほど安易な方向性から切り込むことはなかった。それが芸術性というものだろう。アラスカ帰りのチェインソゥーとか死にそうな蜉蝣に恋愛を感じるか?

スモーキンビリーで唄われてるのは恐ろしいことに愛だった。しかもどっちかというと愛に属すそれだろう。文字を書いているちばがいなくなってしまった以上、このことについて考えずにはいられない。

なぜこんな攻撃的な歌にあえてそんな普通のテーマを載せたのか。もうそれは愛という憎悪というフレーズが思いついてしまったからなのだろうと思った。こんなフレーズ思いついたら発さずにはいられない。でもそれを活かすと普通の気持ち悪い発情した男の歌になっちまう。だったら普段自分がやっている煙草と絡めよう。毎日毎日やにを吸っていてある女に恋しているが、その思いはままならないどころか目の前で意味不明な男になびいたり、夜に徘徊したりしていたが、一生懸命それが外に発露しないように死ぬほどやにを吸ってせき止めていたが、もう無理だぜスモーキンビリーという歌だ。こんな普通なテーマの歌は類を見ない。

まさにパブロックの世界観だ。できるだけ普通のことを自然に歌い、もはや自分が歌を歌っているのか、日常をただ述べているのかの区別もつかない程度でいい。

別に大衆に突き刺さることが目的ではない。ただ毎日この歌を歌うことになるだろうから、それぐらい軽いテーマがいいのだ。でもそのテーマを鳴らすジャンルは、ハードロックやヘビーメタルよりも重そうなロックの音だった。別に比べてどっちがどうとか言ってんじゃないんだけど。

そしてそれまではずっとそのテーマがDつまりBmで唄われてたんだけど、最後は思いっきりBのメジャーで弾かれている。これも思いついた者勝ちというような天才的なアレンジだ。この歌一つの中にこの歌の基盤とそれらを破壊するアレンジが散りばめられているので、他人がカバーしてどうこうなる気がしない。

この最後のAメロはイントロの前半、後奏と同じかたちで演奏されている。そしてその最後にI don't wanna goとくはらが歌う。行きたくない。その先には行きたくない。自分をコントロールできない?憎悪で愛の対象を殺してしまう前に死のうとしているのか、愛という憎悪で潰れてしまう前にはきだしているが、そのはきだしている状態とはなんなのか。相手を殺さないためにはきだしているのか、自分が壊れないように最早相手を殺しにかかっているのか……普段英語など使わないTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTがわざわざ英語を使い、I don't wanna goつまり行きたくないと言っているということは、憎悪を憎悪のままにしてはいけないということか。つまりは女を守ろうとはしている……自我が分裂してしまったから。

そうなるとこのBmで歌われていたAメロが壊れてBメジャーになっていることもこの二重人格を表す二重構造の対比として使われてるのかもしれないが、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTに限ってそのようなダブルミーニングを目指すよりは、「弾いてて気持ちがいいからBにした」ぐらいの根拠じゃないとぼくは嬉しくない。

だって、本当にそうしたかったのであれば千葉自身が勝手にその感情が自分の中に芽生えてるのだろうな、と無意識にでもどっちにでも理解し、当該部分の歌詞に勝手にアウトプットされるだろう。だからこそその英語が出てきたのか。CDでは自分で歌うが、ステージでは自分に口は2つないからくはらに歌ってもらった。

やっぱりこう、歌詞を考えるブログとか流行ってんだろうけど、人の心に土足であがる感じがして楽しくはなかった。

ちばのことを思うと考えずにはいられないのがとにかく歌を楽器のようにしたかったのだろう、その一環としてやにだったか酒だったかでただでさえ喘息だった自分の喉のおそらく構造を変えるまで痛めつけた、その結果として声がでなくなってもおかしくないのに、というのがある。

スモーキンビリー以前まではきれいに旋律を歌う感じがまだあった感じがするが、スモーキンビリー以後はこの「声なのか音なのか判別がつかん」感じのボーカルを意図的に出す部分のちばの声が確立されたような気がする。上記GTとかベイビー・スターダストのAメロとか低い声の部分はきちんと声でメロディを歌うが、……いや暴かれた世界で例えたほうが良かった。Aメロはきれいにメロディを歌うが、一応コーラスもFというメロディはあるが、最早ボーカルを声として使うのでは到底表現できない音でやる、というものですね。

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中村風景
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