職の業が生活の延長上にあるべきだし制服を脱ごう
ぼくは職や業とは「生活の延長上」になければ続ける価値がないと思っています。ヘッダ画像をお借りしています。
それはまるでパンツ一丁で寝てた状態から外着を着ればすぐにでも出動できる状態のように、です。ようにとか例えたんだけど、マジでそれぐらいの労力で良いと思う。こと職の業についてはですね。
普段からこれ(下記のことを)言ってるので言いづらいんスけど、なになに職人みたいな方々はそうじゃないでしょうか。家と工房が一体型になっていて、起きて洗面所に行き台所で用を済ませたのなら、その工房なり離れなりに行く。そして日が沈むまで何らかの職的な業行為をする。
この一連の行動に「フォーマルを着る」という謎文化が介入する隙はない。ろくろを回す職人がいた場合、フォーマルなんて着せられて一日中それやってろと言われた場合のストレスを想像できない生き物なんていないだろう。
ぼくはフォーマルほど「金稼ぎ」するに相応しくない格好はないと思っています。仕の事をする場とは紛れもなく金稼ぎの場だ。だけどなんか知らないけどこの国の土着の文化として「金に関する直接的な表現は忌み嫌われる」が存在するから誰もが金稼ぎのことを仕の事と言う。
金の匂いが象徴的に撤去された状態で、いつの間にか世間に浸透してしまった。本当は「会話したくもないなにかに媚びへつらって、何の価値もない何かを売りつけるという犠牲を支払って懐に金を仕舞っている」をしに行っているのに。
直接言わないことで「暗黙の了解として察せよ」的使われ方もされてしまっています。「仕の事だから……」と言えば色々な言い訳になり、相手を黙らせるための最短ルートが刻める。まるで切り札みたいに使われる語だ。
こうして仕の事という単語それ自体には悪感情のような負エネルギーがガンガン蓄積されている。この国は付喪神を信仰しているので、言葉という無形物にすら何かを宿らせていることだろう。そしてここまで魔除けどころか人よけみたいに使われまくって手垢が付きすぎた結果、それはとんでもない化け物であるように思える。
ぼくは以前にも話したことがあったけど、制服とは個人からアイデンティティを奪い去る効果しか持たないと思っています。
制服と作業着は違う。同一視する向きもあるし、ぼくすらすることがあるけど、一旦別個に扱う。
で最初の例にも出しましたけど、いわゆる「職人」とはジョブ型の性質を強く帯びている。やたらフォーマルを着る人ってリーマンとか公務員とかジェネラリスト、つまりメンバーシップ型雇用で雇われた人だ。
明日はこの辺について考えたい。お読みくださってありがとう。