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なぜこんなにも不憫な目に遭わせるのか

おお、神よ─────汝はどうして試練を与えたまふのか

これからだったような気がする。仲間を持ってその仲間がお互いに利益供与できるような関係性を──もしかしたらぼくはいつしか持ったことがあるかも知れないが──ぼくは経験したことがないのでその喪失感や、存在してたときの感覚とかがわかりようがない。

だから勝手にああだこうだも言えぬ。メロスには経済がわからぬ、と同じようにぼくには利益供与がわからぬ。でも本当にこれからなんでも始まるように思えた。

利益供与に次ぐ利益供与の先にはおそらくトータル的な利益供与もあるはずだ。

そこからは更に公共的な利益供与が……あまり利益の話ばかりするのも情けないか。

悲しい時に助けられたり、嬉しい時に歓びをわかちあえたりできるのはいいことだろう。これまではそれができたが、次はどうなるだろうか。

手に入れては失い続ける人ならざる者たちを見続けるのは力がそこそこ必要な気がする。力が恐ろしく必要であるのはもちろんその当事者たちである。

だから当事者じゃなければ見てるしかない。声をかけるのは野暮……それでも歩き始められる強さをなんと表現すべきなのだろうか?いちいち表現すべきではない。そんなことに、他者からどうこうできるわけもなく、どのような評価をつけられるべきでもないことに名前をつけるような行為を受けるべきではない。

名前をつけるとはほかと違うことを周囲に知らしめる以外の意味を持たぬ。つまり名前があるということは分断を示す。生き物は生まれた瞬間に分断される。虫や動物も名前がつけられないだけでデカップリングされている───

そのような名前を持つもの同士が出会うことに意味はあるのか。あったからこそ悲しむことになったり、嬉しいこともあったんだろう。

無理矢理なにかを残さねばならないという使命感に駆られてしまっては、何かがもったいない気がする。それがなんなのかぼくにはわからない。価値がないなんて思わないが、思い出となるためだけの思いをぼくはどう受け止められるのだろうか。

まさに今のぼくがそうしている……無理矢理なにかを残そうとしている……こんな行為に意味があるのだろうか?それならばこの不憫さに名前をつけ、名前がつけられることによる対策方法を見出そうとするほうが意義深いんじゃなかろうか?いや、そんなことをされて嬉しいなんて誰が思うんだろうか。

ぼくは何をしているんだろう。その不憫さを肩代わりすることもなく、このようにしょうもなく電子空間で生きている。

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中村風景
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