太陽に焼かれて殺されたダニの香りの芳香剤を売れ 第39.2話 小麦とメラ
闇が深くのしかかり、周囲は音すらも吸い込むような静けさに包まれている。ドアの隙間から差し込んでいた光が消え、視界も心も完全に塞がれたまま俺はじっと息を殺して立ち尽くしていた。
全く知らない異質な空間に閉じ込められ、出所の分からない声に呼びかけられている。デミグラなんて言われても、俺には何も理解できない。
「……誰?」
自分でも驚くほど冷や汗が滲む。俺の言葉に、闇の中の声は微かに笑いを含んで応えた。
「誰……?もう忘れてしまった。でも……デミグラちゃんが無事なら、それだけでいいんだ」
柔らかくもどこか得体の知れない響きに、ぞくりと背筋が冷たくなった。「デミグラ」という言葉がこの声にとって重要なものであるらしいことは伝わるが、その言葉自体に全く覚えがない俺にはむしろ不気味さが募るばかりだった。
「何なんだってば……デミグラって誰なんだ」
俺が強く問いかけると、しばらくの間、返答はなかった。闇の中で自分だけがぽつんと取り残されているような気がして、足元がふらつく。いや、むしろ俺は立っているつもりで生きるための気力を失い、もうその時点で床に這いつくばっていたのかも知れない。
やがて声がまたかすかに囁くように聞こえた。
「デミグラちゃんは……小さくて、優しい女の子だった。いつもお話を聞いてくれた、やさしい子だよ」
答えになっていない。俺の頭に浮かぶのは、いま湖のベンチで待っている浅荷のことだった。
「……デミグラなんて人を俺は知らない。何を言ってるんだ……?」
声はそのまま、まるで俺の反応など気にも留めずに続けた。
「もう、しばらく会えてないけれど……いつも一人で寂しそうだった。きっと今も、そんな顔をしているんじゃないかね?」
「そんなこと、俺に関係ないんだって」
でも俺の心の中で何かがひっかかる。この声が話す「女の子」が浅荷だとは思えないし、ましてや俺が知る浅荷に「寂しそうにしている」などという形容は当てはまらない。
しかし、「一人で寂しそうな顔をしている」と言われると、浅荷がときどき見せるふとした表情が頭をかすめた。俺と一緒にいる時、どこか浮かない顔をしていたこともある。というか……生霊かもしれないおばあちゃんの話をした時、意味不明な音がした時の話を思い出している時……その記憶がちらつき、次第にこの「デミグラ」と呼ばれる存在が彼女と重なるような気がしてきた。
「もしかして……浅荷のことを言ってるのか?」
「ああ、その名前を聞いたことがあるような……ないような……でも、デミグラちゃんに会えたなら、それが一番幸せなことだろうよ。ねえ、あのこは元気でいるのかい?」
確信には至らないが、この生霊としか言いようがない声はどうやら、浅荷に何かしらの関わりがある……のか?
だが俺はまだこの声を信じているわけではない。何かを企んでいるようにも聞こえるし、浅荷のことを知っているふりをして、俺を揺さぶっているだけなのかもしれない。
「……元気」
と俺は慎重に答えた。
「そうか……それなら、それでいいんだ。元気でさえいてくれれば」
その言葉に、俺は少し肩の力が抜けた。
だが、まだ油断はできない。ここが異常な場所であることには変わりないし、この存在が俺に何を求めているのかも不明なままだ。
「……浅荷のことを、本当に知っているのか?」
俺の問いに、声は少し困惑したように答えた。「……あの子はそんな名前だったのか?今はもう思い出せないよ。ただ、あの子が昔、好きだったから覚えているだけさ」
俺の中で何かが引っかかる。浅荷が大事にしていたもの?声は静かに続けた。
「デミグラちゃんが……よく遊びに来た。私が買ってきたものを嬉しそうに食べていた。ハンバーグにかけると喜んで食べてくれていた。だから……『デミグラちゃん』ってふざけて呼ぶこともあったことを思い出したよ」
ハンバーグ――その言葉が耳に届いた瞬間、俺の中に一気に浅荷の話していた「おばあちゃん」の記憶が蘇った。隣に住んでいた近所のおばあちゃん、彼女がまだ小さかった頃に親しくしていたという人物。浅荷が時折感じる「気配」の正体が、彼女と再会したがっているこの存在である可能性があるのだろうか。
「……浅荷が話していたおばあちゃん、なのか?」
俺の問いかけに、声は少し間を置いた。
「おばあちゃん……そうかもしれないねぇ。でもねぇ、名前はもう出てこないんだよ。ただ、あの子が今も元気でいてくれるなら、それでいい」
まるで、すでに自分がこの世の者ではないことを知っているかのような、静かな響きだった。だが、まだ完全に安心はできなかった。浅荷が語っていた「気配」は守護のようなものだったかもしれないが、今この場で俺に向かって話しかけている声がそれと同じとは限らない。俺はなおも警戒を解かずに問い続けた。
「どうして、浅荷のことを気にかけている?何を望んでいる?」
「何も……ただ、あの子が元気でさえあれば、それだけだよ」
その言葉には、確かに敵意も害意も感じられない。けれど、なおさら気味が悪い。この声が語るのが真実なら、浅荷を今でも大切に思うがゆえに彷徨っているのかもしれない。だが、同時に、この場所に閉じ込められた俺への異様な不安が拭えないのも事実だった。
「……デミグラは、あんたのことを覚えているだろうか?」
俺の問いに、闇の中の声がわずかに沈んだように聞こえた。
「……覚えていてくれるかどうか、それはわからない。私は名前も姿ももう薄れてしまったのだから。だから、こうしてデミグラちゃんを時々思い出して、ここに漂っているのかしら」
その答えを聞きながら、俺は確信と疑念の間で揺れ動いた。彼女が幽霊であろうと生霊であろうと、ここで俺に何を求めているのかが全く見えない。俺に浅荷の話を聞かせて、一体何を望んでいるのか?自分の存在がここにあると知らせることで、俺にどうして欲しいのか?
「じゃあ、俺に何をしろって思ってる?デミグラと俺は、ただここに遊びに来ただけだ。こんな場所で、わけのわからない話を聞かされてるわけにもいかないんだよ」
俺が強い調子で言うと、静かに微笑んだような声が聞こえた。