普通のルッキズムとはまた違う「SNSルッキズム」から離れてもいい
見たくない情報をシェアしてくる人は気軽に見えなくしようぜ!と友達に勧めたお話を書いた続きです。ヘッダ画像をお借りします。
上記リンクではデジタルデトックスがいいんじゃないみたいな終わり方をして、次回はSNS上で期間限定商品(どちらかといえば商品の販売期間を予め限定してしまい、はなっからその時期しか買えないようにしているだけで販売者の鼻先3寸で当該期間を1日過ぎてその日からまた売ろうとすればいくらでも売れるもの)の買える期日が近づくと「買えー!買えー!急げー!」というマーケティングをするおっさんらはなぜ優良誤認系のアレで裁かれへんのやみたいなことを今回お話したいと申し上げました。特に健康食販売の薬事法が云々の資格を持っている人に多い。
しかしながらそちらについて考えていると、どうにもSNSでは「SNS上ではこう振る舞うことこそが正しかれ」みてえなSNSルッキズムとでもいえるような思想が蔓延しているからこそそんなようなマーケティングが横行してしまうのとちゃうんかいなと思ったため、そちらについて考えたい。
SNSルッキズムとは上記したそのままではあるんですが、ことさら自由なSNS上において、人にどう見られるか/見せたいか/見られたくないか/あるいは人とどう付き合うかみたいなしがらみに囚われた結果、特定の行動しか選択肢として選べなくなる事象を指すようにぼくは思っています。自分で考えておきながら~ように思っていますとは
わかりやすい例で言えば誕生日でしょうか?お誕生日を迎えると(ご正直にSNSに対して誕生日という個人情報を打ち込んで与えているのであれば)、SNSがいちいちお知らせしてくる。あなたの誕生日ですね、と。
するといつしか、誕生日を迎えたことをSNSから伝えられた画面のスクリーンショットを貼っつけて、「今日は俺の誕生日なので、この書き込みにリプライをする義務が貴様らにはある」然とした生き様を見せることがやや一般的になりつつあるように思います。
本来、誕生日とは母に感謝……といいますか母が味わった労苦を称える日でしかないですね。一年待っていればその日は当然来るわけですから。今、自分が持っている命を嬉しく思うのであれば余計に母へ感謝するのでなければ筋違いなように思えてしまう。
ともあれこれは「スクリーンショットで保存する文化」と「お誕生日は周囲から祝われて当然」文化が凄まじい融合をしてハイブリッド文化を生み出した結果爆誕してしまった悲しき獣のような慣わしでした。
ここに対して、祝いのリプライをくれてやらねば村八分になってしまう。デジタルデトックスできないと考えてしまう人の心理がここにあるように思えます。
つまり、ずっっっっっっっっっっっっっとSNSの更新画面に張り付いて、誰がどんなことを発していたかを確かめておかないと上記のように「誰かが誕生日を迎えたのであればそれを祝うという行動を当然取らねばならない」ことが正しい振る舞いであるとインプットされている。
「振る舞い」つまり「人からどう見られているか」、正しい振る舞いを願うのであれば、人から正しく、正しい人だと見られているかがその人の中では最重要課題となってしまうため、誰かの誕生日を見逃すなんて選択肢は取れない=デジタルデトックスなんてできない、ということになってしまう。
ある価値観において正しく振る舞えている者だと見られたい、思われたい―――――つまりSNSルッキズムといえるのではないでしょうか。
本来のルッキズムがファッションなり身体のパーツなりを素晴らしいと思われたい至上主義であることに対して、行動という目には見えないものながらSNSでは可視化されてしまうものについて「よく見られたい」と思ってしまう。
どうやらSNSではどう振る舞うことが正しいのかが既に決まってしまっているらしい。不思議なことです。
SNSで相関関係のある対象の話しを全部見ておかねばならなくなると、前述したような不快のおすそ分けを平気で食らってしまう。日常的に食らってしまう。
デジタルデトックスを始めるには、まずこのSNS的ルッキズムから脱却することから着手しても良いような気がする。それが健康への第一歩のような気がする。
お読みくださりありがとうございました。