静岡東高校の谷川俊太郎が書いた校歌について理解を深める
かつて谷川俊太郎が作詞したという校歌が、当時の教育熱心な教頭に変な利用のされ方をされてたらしいので、その校歌に込められた思いを再開封したい。
ちなみにぼくは数日前に歌を論評する際に歌詞について考えることほど意味のないことはないと言った。歌詞とは、その歌とそれを聴いている当人の間のみの間でその存在意義が完結するものだ。こうだから素敵、ああだから素敵などと押し付けたり、それが一般的な考え方であると断定するものではない。だから上記の使われ方は間違っているわけだ。ぼくはこのような考え方に基づきこれから話し始めるため注意されたい。
前提として、谷川俊太郎の意見の注目すべき部分に以下がある。
1. 東の空に陽がのぼる
分析:
「東」という方角は象徴的に「新しい始まり」や「希望」を指します。日の出を具体的なイメージとして描き、学校で迎える新しい一日や、新設校としての出発を暗示していると解釈できます。未来に向けた明るい視点を示しています。
2. 緑の丘に風が光る
分析:
「緑の丘」という自然の風景は、豊かで安らぎのある環境を表します。「風が光る」という表現は、動的でありながら美しい自然の調和を描き、生徒たちの青春期の輝きを暗示しているとも言えます。
3. 新しい今日 自由な今日だ
分析:
「新しい今日」は希望と可能性を、「自由な今日だ」は束縛のない創造的な学びと個人の成長の余地。学校という場が、毎日新しい発見と自由な発展をもたらす空間であることを語っています。
3.5 その今日に学ぶきびしさ
分析:
「今日」は先のフレーズとつながり、自由であると同時に厳しさも伴うものとして描かれます。ここでの「学ぶきびしさ」は、単に勉強の難しさだけでなく、人生における挑戦を受け入れる覚悟を示唆しています。
5. その今日に生きる喜び
分析:
厳しさを克服した先にある「生きる喜び」を描きます。困難の中にも成長や達成感を見出し、それが喜びにつながるという前向きなメッセージが込められています。
6. あこがれやまぬ心いだいて
分析:
「あこがれやまぬ心」は、夢や希望に向かって常に進み続ける精神を象徴しています。これは学校生活の中核となる、目標に向けた努力や未来への期待を反映しています。
7. 歴史をたずね 宇宙に問いかけ
分析:
「歴史をたずね」は過去から学び、「宇宙に問いかけ」は未知や未来への探究心を示しています。伝統と革新の両面を持つ教育の役割を見事に捉えた表現です。
8. ひとりひとりが明日を拓く
分析:
個人の主体性を尊重するフレーズです。学校は集団の場でありながら、各生徒がそれぞれの明日を切り開いていく独立性の場。
9. ひたむきに おおらかに 友よゆこう
分析:
「ひたむきに」は真剣に努力する態度、「おおらかに」は柔軟で寛容な心を指します。「友よ」という呼びかけが、連帯感と共通の目標を共有する仲間意識を表現しています。
10. ふるさとの誇りを胸に
分析:
地域やふるさとへの愛着を示し、アイデンティティを大切にするメッセージが込められています。学校が地域の誇りであり、生徒たちもそれを担う存在であることを示唆しています。
11. われら静岡東高
分析:
最後に学校名を堂々と掲げることで、この詩全体が「静岡東高」の象徴として、学校生活の目標や誇りをまとめています。個々のフレーズがこの結びで一体化され、学校への帰属意識を高めています。
「その今日に学ぶきびしさ」というフレーズは、多義性を持つ表現として特徴的である。この一節を通じて、多様な解釈が生まれる背景と、それがもたらす意義について考察したい。
校歌は単なる儀式的な存在ではなく、歌う人の価値観や経験に応じて、その解釈が変化する。例えば、この一節を「自立して自由に生きること、そしてそれに伴う責任」と理解したように、校歌は個々の人生観や状況に寄り添う詩的な広がりを持つ。
このような多義性は、作詞者の意図と歌う側の経験が織り交ざることで生まれるものであり、校歌がただの形式を超えて個人の成長に寄与する文化的資産であることを示している。
一方で、校歌が教育者や指導者によって恣意的に解釈される場面も少なくない。
静岡東高校の教頭が「その今日に学ぶきびしさ」を受験勉強の奨励として捉えたことは、一面的な解釈の典型である。しかし、こうした指導者の解釈も、結果的に生徒が校歌をより深く理解する契機となる場合がある。
その教頭の理解を理想的ではないと考えた方がこの一節を「自由と責任」として解釈した背景には、指導者の見解との対比。校歌の多義性は、時にその受容の仕方に幅を持たせる一助となる。
教頭の意見にがっかりした人は、校歌を「今でも大切に思う」と述べていた。
この発言は、校歌が卒業生にとって特別な存在であり続けることを象徴している。校歌は、個人の記憶やアイデンティティと結びつくことで、たとえ学校の規模や地位が平凡であっても、生徒や卒業生の心に深く刻まれる。校歌の本質は、歌詞が指し示す理念が学校という枠組みを超えて、人生の指針や懐古の象徴として作用する点にある。
谷川俊太郎自身が「校歌が生徒の心の持ち方一つで生きもするし、死にもする」と語っているように、校歌は卒業後もふと口ずさむことで、過去の経験を現在と結びつける存在となる。
校歌を大切に思い続けている事実は、校歌が単なる学校の象徴ではなく、時間を超えた自己との対話の媒体であることを示している。
これこそが校歌の普遍的な価値であり、特定の解釈や時代に閉じることのない大きな魅力である。
最後に注目したいのは、校歌が単一の意味に限定されることなく、多様な解釈を許容する点である。
「自由と責任」という普遍的なテーマを見出す一方で、他の人々が異なる価値観や経験に基づいた解釈を持つこともまた校歌の魅力だ。その多義性こそが、校歌を一人一人の心に寄り添う柔軟な存在として位置づけている。
結論
静岡東高校の校歌「その今日に学ぶきびしさ」は、多様な解釈を許容する詩的な広がりを持ち、卒業生一人一人の人生における特別な意味を形成している。
「自由と責任」という解釈は、まさにその校歌の普遍的価値を体現しており、校歌が歌う者とともに成長する文化的遺産であることを示している。校歌は、学校生活を彩る存在であると同時に、人生における思索の源泉ともなるわけだ。
これを踏まえれば谷川俊太郎が何を考えていたのかには完全に肉迫できるはずだ。最後にもう一度彼の思いを引用して終わる。