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本を読むこと。 ~ カルピスを飲むたび思い出す熱い志 ~
「初恋の味」というキャッチフレーズを聞いて皆さんは何を思い浮かべますか?
昭和後期生まれの私にはあまり馴染みがないキャッチフレーズですが「カラダにピース」と言えばわかりますよね。
今日はあの国民の99.7%が飲んだことがあると言われる国民的飲料「カルピス」のお話です。(っていうか0.3%誰?って感じですね)
カルピスのボトルを見てみますと、since1919との記載があります。
よくよくこの年代を考えてみますと、第一次世界大戦直後には「カルピス」はあったということです、とても歴史の深い飲み物だったんですね。
ということで、ノンフィクションライター、山川 徹 著「カルピスを作った男 三島海雲」を読みました。
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本書はカルピス創業者、三島海雲生涯を多数の文献を元に追いながら、カルピスのルーツや三島海雲という男の魅力に迫ります。
本書は新聞の書評を読んで知ったのですが、それまでは三島海雲という人物すら知りませんでした。
しかしながら、読み進めていきますと、三島海雲という男の人柄に引き込まれていき、すっかりこのイケメンのファンになってしまいました。
三島海雲
日本が日清戦争、日露戦争と日本がアジアで台頭してく中、数多くの冒険心あふれる若者達が未開の地での成功とロマンを求めて、中央アジアへと渡っていきました。
いわゆる「大陸浪人」といわれる人々の中の一人にこの三島海雲もいました。
最初は日本語教師として清国にわたった三島は自国製品を輸出して販売する行商の事業を起こします。
やがて日露戦争へ向かう中での軍需品の需要が高まり、軍帽で使用する金モールの輸出事業が成功し、日本がロシアへ宣戦布告すると、三島の元へ軍馬の買い付けの仕事が回ってきます。
大陸での軍馬は財閥が抑えていたため、三島は世界地図の空白地帯、蒙古(モンゴル)へ軍馬を求めて探検します。
そこでカルピスのルーツと出会うことになります。
カルピスとの出会い
軍馬の買い付けは蒙古に対する知識不足(冬に訪れたが、遊牧のため牧草のない冬には馬は売り払われてしましほとんどいない)ため失敗に終わりますが、この探検的な旅を通して、蒙古の民との生活や慣習を知識としてため込んでいきました。
そこで出会った乳製品について三島が現地でお世話になった方に聞くと、
「先祖ジンギスカンの時代から伝わる秘薬で、王者の食物です。これさえ食べていれば病にもかからない、年も取らない。身体は丈夫になり、肥ります。」と言われます。
実際に、三島がそれを口にしますと、数日ほどで便通がよくなり、頭の具合もよくなって、不眠症も解消されます。
また細かった身体がぎゅっとしまって少し肥ってきたことに気づきます。
この三島が食べた乳製品が牛乳を発酵させて得た「乳酸菌(本書では酸乳)」を含んだ食物でした。
そして14世紀の元朝時代になぜ遊牧民族がユーラシア大陸を席巻できたのか、その生命力・パワーの源を三島はこの乳製品に見出します。
そこで蒙古滞在中に乳製品作りを教わり、さらに一時帰国した際には東京大学の学徒らとの交流を深めていき、「カルピス」誕生の土台ができあがっていきます。
カルピスの誕生
日本に残していた妻が倒れたことをきっかけに日本に帰国した三島はそこから乳酸菌の研究に没頭します。
そして1916年に牛乳から発酵から得た乳製品「醍醐味」が販売されます。
「醍醐味」は自然的強壮食品として一流の名士のお目にもかかり、大ヒットし、注文が殺到しますが、醍醐味の生産には大量の牛乳が必要であり、
さらに乳酸菌が生きているため、貯蔵が利かず、商品には不向きでした。
つまり需要に供給が追いつかず生産中止になってしまったのでした。
大正時代は日本初の「健康ブーム」が訪れたと言われており、当時「滋養」「強壮」「健康」のキーワードを含有した「醍醐味」のヒットは必然だったのですが、大量生産できないことがネックとなってしまいます。
その後、三島はカルピス社の前身、「ラクトー株式会社」を立ち上げ、最初は乳酸菌入のキャラメルの製造に着手します。
こちらも夏場になるとトロトロに溶けてしまい失敗に終わりますが、醍醐味の生産後に出る脱脂乳を利用しての商品化を思いつき、カルピスのプロトタイプが完成にこぎつけます。
余談ですが、こちらのプロトタイプは様々な人々に試飲させており、その中に歌人「与謝野晶子」も含まれています。
与謝野晶子は日本初の乳酸菌飲料の感想を二首の歌にしています。
カルピスを友は作りぬ蓬莱の薬というもこれにしかじな
カルピスは奇しき力を人に置く新しき世の健康のため
試飲させてはどんな人の意見でも取り入れて試作を重ねていく、それが開発者三島海雲の姿勢でした。
さらに開発した飲料にカルシウムを入れることを思いつき、カルシウムを添加した乳酸菌飲料が出来上がります。
この乳酸菌飲料は「カルピル」と名付けられますが、「カルピル」のカルはカルシウム、ピルはサンスクリット後で醍醐※を意味するサンピルマンダ
(※醍醐→牛乳を精製する過程の五味の一つ)から取られたとされます。
それが、どうも発音の歯切れが悪く、色々口ずさんでいく中で「カルピス」になったといいます。
更に音声学的に良いかどうかを「赤とんぼ」や「この道」の作曲家の山田耕筰を訪ねお墨付きをもらったそうです。
こうして1919年、日本初の乳酸菌飲料「カルピス」が誕生します。
カルピスの快進撃
関東一円を中心に瞬く間に売上が伸び、1923年にラクトー株式会社は「カルピス製造株式会社」となります。
先の「初恋の味」というキャッチフレーズは1922年から新聞に掲載されました。
大正の時代は色恋はご法度だったためこのキャッチフレーズはなかなかセンセーショナルだったようです。
三島は企業PRに広告を利用した第一人者でもありました。
先の与謝野晶子やイタリア党首ムッソリーニなどの著名人のコピーを掲載したり、広告デザインのコンペを開催したりと積極に広告に投資したそうです。
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1923年には関東大震災が起こります、震災翌日には三島はトラックに乗り込み、水不足の被災者にカルピスを振る舞っていきます。
この行為で更に清廉なイメージが全国に知られるようになり、カルピスは全国で知られるようになります。
もちろん広告の意図は三島にはまったくなく、純粋に人々を助けたい、健康を守りたいとの想いからの行動でしたが、現代でも度々こうした行動が報道されることがありますが、三島はその第一人者だったのです。
そんな三島の経営理念は「国利民福」です。
三島は企業は国家を富ませるだけではなく、国民を豊かに、何よりも幸せにしなければならないと考え、国利民福を掲げました。
カルピスと戦争
その後、日本は真珠湾攻撃を皮切りに太平洋戦争に突入していきます。
そのためカルピスの原材料はすべて軍の統制下におかれてしまい、生産ができなくなってしまいますが、そんな中でもカルピスの標榜である「滋養」「強壮」「栄養」が国家総力戦に役立つと判断され、終戦まで軍需用カルピスの生産をすることになります。
終戦間際には乳幼児や妊婦のために材料が少ない中で粟と大豆の汁に練乳を混ぜた代用牛乳を病院などに供給します。
まさに三島が掲げた「国利民福」の精神溢れる企業でしたが、1945年5月の空襲で恵比寿のカルピス本社や工場は焼け落ちてしまいます。
その後、企業は再生し、東京オリンピックを皮切りに行動経済成長の波に乗って大きな成長を遂げ、現在に至ります。
三島は経営上、数字を目標に口にしたことはなかったといいます。
「会社はもともと世の中のものなんだ、世のため人のためになることなら何でもいい、だから冒険しなさい、それで会社がつぶれり、なくなったりしてもいいんだ、だってもともとないものなんだから、チャラじゃないか」
「君たちが努力してえたお金だから、貯金なんてしたらいかん。自分のために、自らを教育するために使ってほしい。必要なときに金は必ずどこかから出てくるものだ」
多くの困難や国の運命に左右されながらも多くの友人に助けらけられ、そして「世界中の人を健康にする」という信念のためだけに経営してきた人の言葉は深みが違います。
そして三島の生き方で象徴的なのが「日本一主義」です。
日本一主義とは「分野を問わず、一流の人から学ぶという考え方」です。
先に記載したように乳製品の作り方や乳酸菌についての知識、作曲家に聞いたカルピスの音声学、何かを決断する時にはその道の第一人者にアドバイスを仰ぐというシンプルかつ効率的な流儀です。
個人の人脈もありますが、まったく面識のないところへも必要とあらば出向いたそうです。
まさに三島海雲の持つ人としての魅力ゆえ可能だったことではないでしょうか。
1962年、財団法人がまだ一般的ではなかったこの時代に、三島は全財産を投じて「三島海雲記念財団」を設立します。
大きな事はできなくても、一粒の麦でもよいから播こう。播かれた麦はやがて全ての人類を養う糧ともなろう。
一粒の麦、わが国のーいや全人類の、文化の高揚めざして殖えよ、栄えよ。
財団は2017年までの記録では、1800件以上、約13億円の助成金を研究者に贈呈してきたそうです。
学術研究を通してより良い方向に未来と社会を導いていきたいという一粒の麦の意思をいまも財団は堅実に引き継いでいます。
我が家ではお祝いごとでしかジュースは飲めなかったのですが、カルピスだけは昔から許されていました。
それは、今もなお娘に引き継がれ、我が家のジュースの定番といえば「カルピス」です。
激動の時代を自らを使命と冒険によって切り開いた「三島海雲」。
彼を思いながらカルピスを口にすると、いつもとはまた違った味わいがあるのではないでしょうか。
甘酸っぱさの中に感じる遠く蒙古の景色や情景、どんな困難も乗り越え、己の信念の道を突き進む熱い志もまた、カルピスを味わい深くする大切な成分なのだと思います。
私の人生は、初恋の味「カルピス」に似て、
甘くて酸っぱい思い出に満ちている。
三島 海雲(カルピス創業者)
最後までお読みいただきありがとうございました。
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