明るく笑うことが幸せとは限らない。
幸せな状態って
固定化された
一つのイメージでは
なくて
“自分の性質に沿った
生き方ができること”
なのではないだろうか……
と、
ふと思いました。
明るく笑っていたいと思う人が
明るく笑っていられるなら
それは幸せだと思うのですが
明るく笑いたいとは
思わない人は
明るく笑うことではない
他のやり方を自由に追求できて
実践できて
それを誰にも
邪魔も口出しもされないことが
幸せなのではないでしょうか。
無理に笑わせられて
疲弊しなくていい。
無理に
明るい言動を取らされて
心を死なせなくていい。
悩みたいのなら
存分に悩んでいい。
泣きたいのなら
存分に泣いていい。
何も考えたくないのなら
考えなくていい。
何も感じたくないのなら
感じなくていい。
表情を
作りたくないのなら
無表情でいい。
声に感情を
込めたくないのなら
込めなくていい。
楽しさが
わからなくてもいい。
負の感情とともに
過ごしていてもいい。
ふつうが
わからなくてもいい。
そのままに
生きていていい。
生きようと
しなくてもいい。
それが
明るく笑うことに
特別な価値を
感じない人にとっての
幸せな生き方な
気がするのです。
つまりは
「人からむりやり
押し付けられないこと」
「自分のいたいように
いられること」
が幸せの元であり
こういう状態こそが
幸せなのだ
という
具体的な定義は
きっとないのでしょう。
むしろ
「明るく笑っていることが
幸せなのだ」
というのがそもそも
偏った固定観念だったの
かもしれませんね。
だって
人によって
充実感を得られるものも
幸せを感じられるものも
違うのですから。
自分の幸せを押しつけず
他人の幸せを否定せず
自分の幸せも
相手の幸せも
守られることで
幸せに生きられると
いいですね。
あるいは
そもそも
幸せを求める必要は
ないのかもしれません。
きっと人は
必ずしも幸せがなくても
生きていけますし
自分に
幸せを課さないことも
自由ですから。
幸福を追求する権利は
あっても
幸福を追求する義務は
ありませんものね。