見出し画像

「スピリチュアルに生きる」とは、現実世界を誰よりも正面から生き抜くこと|アジャシャンティの「あなたの世界の終わり」を読んで②

以下の本を読んでいます。

良い。非常に良い。ひじょ〜〜〜に良い(3回言った)。

何がいいのか?

今日もこの本を読んでの気づき、思うことをまとめてみようと思う。

要点は次の3つの言葉に集約される

アジャシャンティ、特にこの本の非常に良いと感じる点は、「地に足がついている」点だ。

それを象徴する言葉として、次の3つに集約されるのではないかと思う。

人生は偉大な教師
思考は偉大な道具
肉体は偉大な計量器

一つひとつ、私なりの解釈として説明してみようと思う(思ったより長くなったので今日は「人生は偉大な教師」について)。

「スピリチュアルに生きる」とは、この人生を誠実に、真実に、真正面から生き抜くという覚悟と実践のことである

「スピリチュアル」という言葉から連想される生き方とは、どんなものがあるだろう?

そもそも「スピリチュアル」という言葉に行き着く人の傾向性とは、どんなものがあるだろう?

他の人はわからないが、私に関して言えば、「この人生が苦しすぎる」という苦しみと、「この肉体世界以外の次元が存在しているのではなかろうか」という好奇心からであったと思う。

特にこの前者の傾向から、どうも「スピリチュアル」は超越的な逃避に陥りやすい。

超越的な逃避とはつまりどういうことかというと、「この肉体世界は幻なんだから私には関係ない」とか、「本来苦しみなんてないのだから」とか、「悟ればあらゆる苦しみから解放されるのだから」とか、そういった態度のことを私は言っている。

確かにこれは、正しいかもしれない。

一方で、これらのことを述べているのは一体誰なのか?という点を見抜くのが死ぬほど大切である。

「この肉体世界は幻なんだから」とか、「本来苦しみなんてないのだから」とか、「悟ればあらゆる苦しみから解放されるのだから」とか、そういったことを述べている主体(つまり「私」)とは誰なのか?

それが、肉体的エゴであるなら、もうそれは「私」(エゴ)に絡めとられている。

「スピリチュアルに生きる」とは、苦しみの解放ではない。苦しみを避けることではない。

むしろ「スピリチュアルに生きる」とは、自分にとって真実で生きるということ。

結果として、起こることは、今まで偽りの姿で作り上げてきた人生の色んな側面の、破壊であるかもしれない。

あなたが今まで信じてきた「成功」が壊れる。「幸せ」が壊れる。そういったことかもしれない。

そしてスピリチュアルが開けば開くほど、偽りでは生きられない。真実でしか生きられない。

そして開けば開くほど、人生の恩寵がより強まる。

人生の恩寵とは、真実で生きていない時、時に手痛い仕打ちで軌道修正がなされるということだ。

それは、体調不良、仕事での失敗、失業、人間関係の悪化(パートナー関係や親子関係)かもしれない。

この時、「肉体世界は幻でしょ?だから私はどんなことがあっても幸せなの〜(お花畑)」は決して「スピリチュアルに生きる」ということを意味しない。

「スピリチュアルに生きる」とはむしろ、こうした人生からの手痛い指導に、真実の自分として、誠実に向き合い、生き抜くことを意味する。

インテグラル理論をご存知だろうか?

インテグラル理論では、物事を以下4つの観点から見ていく。

  • 個人 x 内面

  • 個人 x 外面

  • 集団 x 内面

  • 集団 x 外面

この4象限は、全てが切り分けられているのではなく、1つの本質を映すレンズのようなものだ。

つまり、個人的内面が変容すれば外面である世界(人生)も必ず変容する。嫌でも変容してしまう。

内面だけ「肉体世界は幻なんだから」と超越的な態度をとっているのは、それは結局、神秘体験や「スピリチュアル」にエゴがしがみつき、人生という教師から目を背けているだけなのである。

禅の象徴として取り上げられるものに、「蓮の花」がある。

蓮は、泥水の中でこそ、美しい花を咲かせる。

この泥水こそ肉体世界であり、人生なのである。

つまり、泥にまみれてこそ、美しい花を咲かせるのが、蓮の花であり、それこそが「スピリチュアルに生きる」ということなのだ。

(↑この本も「蓮のように生きる」がわかる良書です。この禅僧はApple創業者スティーブ・ジョブズのメンターだった人。髪は剃らない、何度も離婚再婚を繰り返す、最後は娘救うために湖で溺死と、なんともぶっ飛んでます)

「スピリチュアルに生きる」とは、むしろスピリチュアルに興味がない人以上に、現実を生きるということである。

そしてそれは、時に苦しい。

私は日々、何回自分を偽って生きているだろうか?

これを真実の自分として生きること、それが、どれほど怖いだろうか?

この泥水である肉体世界を、真実で生きること。人生を、誠実に、真なる自己として生きること。これが「スピリチュアルに生きる」ことであり、何も「次元が上がったから私はあの人たちとはもう関係ないの〜」とかそういうことではないのである。

むしろこうした態度で人生から逃げようとすればするほど、そしてもしあなたのスピリチュアルが開いていればいるほど、人生という教師はあなたを決して逃がさない。

そうした苦しみは、「スピリチュアル」という隠れ蓑に隠れて逃避することでは決してなくならない。むしろ「偽りのない自分」で現実を直視し、「真実」という光で溶かしきらないといけないのである。

これが、「人生は偉大な教師」という意味なのである。

苦しみは苦しみとして堪能するしかない

確かに私自身、あらゆる偽りが人生という教師によって破壊された。

親子関係、夫婦関係、職場での人間関係、自分自身との関係。

偽りの自己で作ってきたものが、綺麗さっぱり精算されていくわけである。

そしてその時、超越的態度で臨めるわけがない。

苦しみ、焦り、悲しみ、恐怖に慄き、何度も人生に対して働きかけ、失敗し、苦悩し、絶望し、そしてまたやり直し。

こうしたことの連続であったし、今もそうしたことの連続であるし、そしてきっとこれからもそうなのかもしれない(「もう嫌だ〜」というエゴの嘆き)。

私がまたエゴを働かせて誤った方向、誤った態度で生きようとしたならば、「私の人生」という教師はコテンパンに私を叱りつけるだろう。

そしてこれは、恩寵なのだ。

あらゆる瞬間瞬間が、恩寵なのである(辛い時はそんなふうに思う余裕ないけどね)。

そして私は、あらゆる自己イメージを捨てる羽目になった。

例えば、「優秀な人材」としての自己イメージ。「一家の大黒柱としての頼り甲斐ある夫、そして父」としてのイメージ。「何をしても優秀である程度の成果が出せる人間」としてのイメージ。「親を大切にできる長男」としての自己イメージ。

そうしたあらゆる自己イメージを捨てる羽目になった。

今も、またすぐにそうしたイメージを着込む癖がある。そうした時、私の恩寵である人生がまたこっぴどく私を叱るわけである(最近の厄介な自己イメージはそれこそ「神秘体験に恵まれたなんだか特別ですごい人」という自己イメージだ。くだらん、あまりにくだらん自己イメージ。恥を知れ、エゴよ。いやダメダメ、責めちゃいかん。「わかるよわかる〜特別でいたいもんね〜」)

自分が今まで拠り所にしていた自己イメージ、アイデンティティを捨てる羽目になるのはめちゃくちゃ辛い。しんどい。

けど、人生という最大の教師にそのように仕向けられた時、ただそれを人生の流れとしてあらゆる現瞬間を受け入れ切ること。これこそが「悟り」と呼ばれる境地なのだと思う。

決して、こうした苦しみから逃れることでも、超越的に「私はもう次元上昇したので」とスッとした態度でいることでもないのだと思う。

そもそも私たちはなぜ苦しいのか?

それは、世界のありのままを拒否するから苦しいのである。

苦しみは苦しみのままに全てを受け入れれば、決してそこに苦しみはないのだと思う。

肉体世界という泥水の中で、泥水の中でこそ、「真実」という美しい蓮の花を咲かせられるのだと思う。

少なくともおれは、咲かせたい。とびきり美しい自分だけの蓮の花を。

(長くなったので続きはまた今度)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?