
必然性の中で遊べ
「人生は選択の連続だ」とよく言われる。 けれど、その選択の前提には、すでに「必然性」がある。
それは運命論とは違う。未来が決定しているという話ではない。
量子論によれば、未来は確率的に開かれている。 ただし、その確率の中に「完全なる自由」はない。 どんな未来も可能、というわけではないのだ。
例えば、今ここで急に鳥になることはできないし、 明日いきなり別人になることもできない。
「今」は、無数の要因が絡み合った結果として「ある」。 つまり、私たちは「すでにある必然性」の中に生きている。
けれど、それを悲観する必要はない。 むしろ、その中でどう遊ぶかが、人生の醍醐味なのではないか。
可能性は必然性の中にある
HSA(Holistic Self Approach)では、 「全ては解釈である」という視点を大切にする。
私たちの目の前に現れる世界は、解釈だ。
例えば今あなたは、私のnoteを読んでいる。
もしあなたからnoteという言葉を奪ったなら、ブログといった概念を奪ったなら、あなたはきっとこのnoteを識別できない。
あなたは「note」という言葉や概念を使って、無自覚にnoteとnote以外を分離し、識別することによって、noteという事象を目の前に現出させる。
全ては解釈なのだ。
では、こうも言える。
同じ状況でも、 「制限された世界」と解釈するか、 「遊び場」と解釈するかで、 人生の質が大きく変わる。
いやもっと厳密に言うと、あなたがあなたの人生を「制限された世界」と解釈するなら、そう解釈したい理由があるのだ。
そしてあなたがもしあなたの人生を「遊び場」と解釈するなら、そう解釈したい理由があるのだ。
その理由は、あなたの無自覚の中に眠っている。あなたの「からだ自体」が、その本当の理由をそれ自身の中に潜めている。
それに気づくこと。自覚すること。そうすると、あなたはからだ自体がサインとして放つ必然性という流れを掴むことができる。
必然性の中で、どう動くか。 どう遊ぶか。
確かに必然性のなかで私がどう動くか、どう遊ぶかは、もうすでに過去の関係性の結果として、すでに決められているのかもしれない。
でも別に、すでに決まっているなら、それはそれでいいではないか。
たとえそう決まっていたとしても、私たちにはその中でも「どう動くか」「どう遊ぶか」を自由に考えられる錯覚を今こうして手にしている。
それは確かに錯覚かもしれない。幻想かもしれない。
けどそれで別にいいじゃないか。
もしこの人生が夢だとしても、夢の中で全てを諦めて虚無する必要性はない。
夢なら夢として、遊べばいいのだ。
そして私たちがどれだけ自由を行使しようとしても、どれだけ自分の可能性に期待をかけても、それは全て生命という必然性の中の範囲での話だ。
私たちの自由は、確かに、夢のような幻想かもしれない。
でも、もしこれが夢のような幻想なら、なおさらいいじゃないか。夢でどんなふうに遊ぼうと、それは結局夢なのだから。
私たちが夢の中でどんなふうに遊ぼうと、生命そのものの一部として、私たちの生は勝手に続いていくのだから。
どう遊ぶかは自分次第
「必然だから仕方がない」 と諦めるのもひとつの生き方。
でも、その必然性の中で、 どんな可能性を開くか。 どんな表現をするか。 どんな感覚を味わうか。
どうせ夢なら、夢の中で遊べばいい。
HSAでは、 「気づく・感じる・委ねる」というプロセスを大切にする。
自分が無意識に行なっている解釈に「気づき」、 存在そのものという感覚を「感受」し、 必然性に「委ねる」。
そうすると、 人生は「何かを成し遂げるもの」ではなく、 「ただ遊ぶもの」だと気づく。
未来は決まっていない。 でも、今ここにある必然の中で、 私たちは自由に遊べる。
だったら、 もっと軽やかに、 もっと面白く、 遊んでみたらどうだろう?
もし面白くないなら、もし遊べないなら、「面白くないと感じたい」理由、「遊べないと思いたい」理由、そう解釈したい理由が、あなたのからだに眠っている。
それに気づけばいい。
そしてその理由がどんなものであれ、決して悪いことではないのだ。
良し悪しを決めるのは、あなたの勝手な思考である。
からだは常に正しい。からだは決して間違わない。
あなたは空を見て、雨が降ってきたら、「ああ、今日の天気は間違っている」と言うだろうか?
あなたは空を見て、星が流れたら、「ああ、今日の夜は正しい」と言うだろうか?
生命そのものに正しいも間違いもない。
からだそのものも生命そのものの一部である。であるならば、からだそれ自体にも正しいも間違いもないのである。
正しいだの間違いだの、良いだの悪いなどの言うのは、常に私たちの思考なのである。
からだの声を聴き、からだに委ねる。
からだに委ねられるかどうか、どう委ねたらいいのか、も含めて、委ねる。
からだは常に私たちにこう言っている。
「それでいいのだ。」
そうバカボンのパパに語らせた、赤塚不二夫はやはり天才だなと思う。
(ちなみに「バカボン」の名はサンスクリッド語の「バカヴァーン」からきてるとか。その意味は「覚者」であり、要は「仏陀」である)