【本の感想】『コンビニ人間』村田沙耶香
子供の頃、毎年、鶏を5羽飼っていた。
妹とその鶏達に名前をつけ、小屋の掃除の間、庭に放たれた鶏と遊んでいた。
お祭りやお正月など特別な日に、父がその鶏を〆る。〆た鶏が温かい間に羽をむしるのが私たち姉妹の仕事だった。キャッキャと騒ぎながら羽むしりを楽しむ3姉妹。
それを見ていた母は「この子達は悲しくないんだろうか。この子達に可哀想という気持ちはないのか?」と心配していたらしい。大人になるまで、母のそんな気持ちを知らなかった。
私は鶏は食べるために飼っているもの、と認識していた。だから可哀想とは思わなかった。そう言うものだと思っていた。
豚や牛だってそう。屠殺している姿を見ると食べられないという人がいるが、私にはそれが分からない。
ジビエを食べに行き、うさぎは可哀想だから食べられない、と言う友人のことも理解出来ない。
だから、冒頭部分を読んで、何か分かる気がする、と思った。
主人公の古倉恵子。
音に敏感、お手本があれば出来る、誰かの真似をして話す、仕事以外の雑談はしない、恋愛に興味がない、社会的な地位を気にしない。
人に正社員になることや結婚を勧められても、どうしてそうしなければいけないのか、理解ができない。
そんな彼女の特性が一貫して描かれていた。
一方「ムラ」の人々の目を気にしながら、生きにくいと嘆く白羽。私はこの男に共感できず、自分勝手だな、と少し嫌悪感を感じた。
行動もせずに夢ばかりを語り、自分が生きにくいことを世間のせいにするその姿勢。
でも、案外こういうタイプの人は多い気がする。
これも特製のひとつで仕方ないのだろうか。
タイプは違うが「ムラ」では生きにくい2人。利害が一致し、主人公の合理的思考と感情の欠落が故に始まった同居生活。
その同居がどんな形かは一切問われずに、同居している、と言うだけで詮索されるあれこれ。
「ムラ」の住人はいつもそんなものだ。
世間にどう思われても、誰が何を言おうと、自分の居心地の良い場所、環境で暮らすのが一番。
意見を言ってくる人が自分の人生の責任をとってくれる訳ではない。
最近は何かあると、発達障害、注意欠陥障害などと診断・分類されてしまうことも多いが、誰しもが少なからずそんな要素を持っているのではないか。その量が多いか少ないかだけの違いだと思う。
天才的に数学ができる人がいるように、感情がものすごく豊かな人がいて、運動が苦手な人がいるように、感情が読み取れない、感情がわかない人もいる。
その人の特性がどこに出るのか、その人の苦手が何なのか、ただそれだけの違いなのではないか。
アラフィフ、独身、子なしの私は、少なからず「ムラ」では気まずい思いをすることがある。気まずさのためにどうこうしようとは、今は思わなくなった。またか、と思うだけ。
それは今の自分が幸せだからかもしれない。
でも、どうにかしたいと思う人の気持ちもわかる。
今、自分が幸せでなければムラの人々の言うことを気にして、生活をしているかも知れない。
自分が自分らしく生きる。
それが一番幸せなことだと思う。
他人にとやかく言う人は、主人公のように「自分が自分らしくいられる場所」が見つからない人なのかもしれない。
しかし、白羽がこのまま老いていけばどうなるのか?
貯金が底を付けば、やがて生活保護を受給する。その費用は税金で賄われる。
白羽をみていると「こういう特性の人だから支えてあげよう」と、素直に思えない。
特性なのか甘えなのか怠惰なのか。それを判別する術がないから難しい。
個人を尊重できる人でいたい。
でも、白羽のような人を全て受け入れ、誰も何も言わなくなったら、どうなるのだろう、とも思う。
それが、この作品が投げかけるもう一つのテーマのような気がする。