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道程~クズが生きていく理由

このnoteは人生につまづいている方に読んでもらいたい。

成功者は目を通してもきっと無益です。

人間、太美スターライトの物語。

ありのままの表現で記載されていますので嫌悪感を感じる方は読まない方がいいです。

それでも目を通して読んでくださる方には格別の感謝申し上げます。

有料部分追加しました。
2024/1/4



第一章




わたしは昭和61年の3月20日にふたつの海に挟まれた地方都市の片田舎で生まれた。

母方父方両方の初孫でとても可愛がられた。

いろんな人に可愛がられていろんな人のところに懐いて行ってしまう子どもであったため、母はわたしのことをよく思ってはいなかった。

バブルも終わりの当時、父と母は苦労していた方だと思う。
母が父の両親と不仲だったこともあり父が知り合い伝手でいただいたボロ屋に身を寄せていた。

わたしが物事がついた頃にはお玉やお鍋、掃除機の柄などで頭の形が変わるぐらい母に殴られてばかりいました。

いつも痛くて泣いていたわたし。

見かねた母方のおばあちゃんがやや遠方35km離れた街からいつもわたしを連れに車で迎えに来てくれた。

おばあちゃんが連れ出すことで母はなおわたしのことや自分の母であるおばあちゃんを恨むようになっていた。


そんな日々が小学生2年生まで続いたある日、見かねた父とおばあちゃんが母を精神科に受診させたところ重度の統合失調症であることがわかった。

母はそのまま入院。
わたしと四つ下の弟は児童相談所に送致された。


弟は3歳。
母が突然いなくなり泣いてばかりいた。

幸い母は弟には暴力はほとんどふるわなかった。
今思うとわたしだけで本当によかった。


児童相談所で数ヶ月過ごしたある日、母が退院の目処がたったので家族は元に戻ることになった。

しかし次の年、母は再びわたしに暴力をふるい始めた。

再度見かねた父がわたしだけを児童相談所に送致した。
小学4年生の夏の終わりだった。

母にわたしを殴りながら「最後の飯だよ!」と言った。
そして母が作ってくれた冷やし中華を食べていた。
食べながら泣いてた。
いまでも強く覚えている光景。


児童相談所に送られて帰れる目処がなかったため児童養護施設に送致された。

先日フォロワーのポンシュさんが寄付されたような施設。


わたしは施設では同世代には相手にあまりしてもらえなかった。
両親がいない子が多い中、両親がいたからという理由で仲間はずれにされた。

そんな中救いは音楽だった。
その頃のJPOPを聴くといまでも辛かった記憶が蘇る。

ちょっとぐらいの汚れものならば残さず全部食べてやる、

ぼくはどこで食べてもらえるんだ?


そうして小学校五年生になろうとする頃、施設で上級生に叩かれて鼓膜に怪我をした。

それを知った父が施設にも置いておけないと悟り家族の元へと戻った。
わたしには居場所なんてなかった。

母はいつも言っていた。
「あんたなんか生まれなければよかったのに」

そんなの知らんよ。殴らないでよ。
いつも思ってたけどやめてもらえなかった。


小学五年生は父母の元から新しい学校に行った。
ここで例の事件のIくんとも出会った。


ただ今度は施設の暮らしのせいでか学校に馴染めなくなった。
ここから長い不登校になり、母と毎日24時間いる生活になった。つらかった。


小学六年生の冬、不登校になったわたしたち兄弟に悲観して母が一家心中を考えるようになった。


毎日母は父を責めたてた。
父は日に日にやつれて行った。


母の中で心中する日が決まった頃、父は仕事を辞め、わたしたち兄弟との時間を母から離して過ごしてくれた。
毎日毎日、父とおでかけする日々。とても楽しかった。

それは長く続かなかった。
小学六年生の冬の日。その日はやってきた。
暴風雪警報の日。
わたしたち一家は車で出かけた。

母はポストへ残りの財産をおばあちゃん宛てに送った。
猛吹雪のなか南へ向かった。
母が選んだ方法は練炭と排気ガスによる一酸化炭素中毒死だった。

父はためらっていた。わたしも弟も怖くて泣いていた。

ためらった父が、すぐ見つかるような場所しかない、帰ろう、と母に促し発狂する母をよそに家に帰ることにした。

この時母は狂っていた。
帰るなり父を殴り蹴り、「お前のせいで死ねなかったんだ!今すぐ首を吊って死ね!」
何時間も罵っていた。
父は一切やり返さず黙っていた。

耐えかねた父が漁師である自身が作った縄で首を吊ろうとしているのを見てわたしはやめて!と声がでた。

発狂していた母は急に大人しくなりわたしにこう告げた。
「じゃあお父さんと一緒に外で死んできなさい」

言われてわたしと父は再び車で荒天の中外に出た。
弟と母を残して。

わたしと父はあてもなく何時間も車で彷徨いました。
わたしはなんだか不安になって車を運転する父に言いました。
「今すぐ帰ろう!◯◯(弟)があぶない!」

わたしたちは飛んで帰りました。

嫌な予感は的中していました。
弟はお風呂場でぐったり青ざめ首には電気のコードが巻かされてました


わたしは怒りが止められなかった。
母に殴りかかった。
もうあとは覚えていない。

ただ母も特に大怪我はなく、弟も一命をとりとめた。

父は母との離婚を決意した。

わたしたち兄弟は解放された。

それから数年後、母が再び頭を下げて父に居候を申し出た。
わたしはもう車の免許を持つぐらいの年齢だったので母に力負けすることはなくとも、どこか嫌な感じだった。


案の定だった。
どこかで覚醒剤をやってたらしく飲酒するたびフラッシュバックしてトンチンカンな行動を取っていた。

ある日母はレンタカーを借りて出かけて離れ街にて母は逮捕されていた。


わたしは警察に呼び出された。
母の容疑は現住建造物放火だった。
自殺しようとしてホテルの宿泊部屋に火を放ったそうだ。

わたしは面会で言った。
「おまえなんか母親じゃねえよ」

捨て台詞で母に言われた
「お前は◯◯(父)の子じゃねーよ」

え?なんで?
意味わからない。
どうしてそんなにぼくを傷つけるんだこの人。
もう一生涯会わないことを決意して面会室を離れた。


その頃わたしも結婚していました。家庭を守りたい気持ちはあったけれども心が摩耗してもうついていってなかった。


その当時働いていたモスバーガーの同僚の9つ上のお姉さんがすごく優しくしてくれて間違いをした。


自分も何をしてるかわからなくなって妻に離婚を申し出た。
消えてなくなりたかった。

この頃から暴れたり、悪い友人とツルんで逮捕されることが増えた。


その後ぼくは地元の先輩から誘われて三次団体だが反社会組織に入った。
なんでもよかった。自暴自棄だった。


オヤジのためなら死にます。その言葉だけで気に入ってもらった。


そんなある日昔の彼女に街で出会った。とてもやつれている様子だった。
わたしはどうしたの?と理由を尋ねた。
理由は男に騙されて輪姦されたり、全く知らない人相手に売春強要させられてるという話しだった。
それを周りの仲間の男女に写真撮られて拡散すると脅されている、ということ。

可哀想だと思った。
いまの自分ならなんでもできると勘違いし全部片付けてやる、と思い行動してしまった。


いじめていた男も女も口で説明したくないぐらい痛めつけた。

とはいえその3人はすぐにきちんと口をあわせて被害届を出した。

元彼女は一人で被害を受けた上、被害届出してなかったため相手に先手を取られた。

自分の確認不足だった。

あとは弁明するより罪を受けて消えた方がいいと思ったものの実刑判決は6年と執行猶予分2年半で8年6か月の刑をこの身に受けた。

そうして罪を償う日々へと向かう。



第二章


先に未決は旭川刑務所拘置棟で過ごし、二審で旭川から札幌に移送され、札幌拘置所で過ごした。

その際に、四代目山口組暗殺計画の主犯、石川裕雄さんとお話しすることができた。
ぼくはそれ以前にも執行猶予判決の裁判の際に同所に来たことがあって石川裕雄さんと会っていたため覚えていただいていた。

あんちゃん、先あるねん
気ぃ落とさんと真面目になるんやで
わいはここが第二の人生や(無期懲役のため)
ここしかないんやで

完全な言葉では思い出すことはできないが励ましていただき、書もいただいた。
残念ながら書は紛失した。

そして札幌刑務所で洗礼を浴びる。


分類センターというどこの刑務所に行ってもらうか審査する工場へと配役される。

紙折りの軽作業をしながら分類面接官と面接したり他の時間は所作を学ぶため行動訓練。

イッチニーイッチニー、ぜんたーい、止まれ!イッチニー!である。

用件。担当台前お願いします!からの用便お願いします、だ。
トイレにだって工場出役中は勝手に行けない。

とはいえ分類センターはまだまだお遊びにすぎなかった。歳の近い仲間とも話す機会もあり、これで出所後も悪い道で繋がるんだなー、と思った。

分類センターで意気投合してまた悪いことしようぜ、って表面で言った人間と今現在会ったためしがない。

そうして分類も3ヶ月が経つ頃、ようやく移送先が決まった。
自分は初犯だったので釧路か函館の初犯刑務所に行くと思っていた。

しかしながら結果は違ってた。

移送先は若年者累犯刑務所である盛岡少年刑務所であった。

盛岡少年刑務所に移り新入訓練工場で生活しながら配役される工場を分類面接等を得て決められる。
ここで能力値を見られ、高度な工場か単純作業かの宣告を受ける。

結果は炊場(すいじょう=受刑者の食事を用意する工場)だった。
上から数えた方が早い高度な工場へと配役を受けた。

炊場に配役され、すぐに仲良くなれたのは関東の中国人ギャングのメンバーの1人だった。

「きみ、故郷はどこ?」

同い年だったので仲良くなった。
その時の炊場は工場から戻って生活をする居室(昔の言い方だと舎房)が雑居房3部屋がメインで独居房が1だった。
独居房の1人はエリート囚でCDプレイヤーを持っていたため1人で過ごしていた。
他人に貸さないような措置としての意味もあったと思う。

現在の懲役には5段階のランクと4段階のグレードのようなものが二種類ある。

優遇区分と言われるランク。
未分類からスタートし、無違反で三類からスタートする。
下から5類、一番上が1類。
5類には優遇はない。
4類は5類より手紙が出せる回数が増えて、面会できる回数も増え、作業報奨金の使える割合が増える。
3類は4類と同じものがさらに優遇され、月一度集会と呼ばれるささやかなお菓子とジュースをいただきながら集まる会が開かれる。
他には私物の日用品の制限が一部解除となり写真立てやサンダルなどが報奨金や領置金(りょうちきん=自分のお金)で買えるようになる。
2類は3類がさらに優遇され、月一回だった集会が二回となる。作業報奨金に至っては月額の半分まで使えるようになる。
1類は全国的に見ても少数である。
2類からのグレードアップが倍以上で月二回の集会が三回となり、増えた一回も盛岡では1,000円分デイリーヤマザキでお菓子や飲料などを選択して買うことが出来た。さらに購入できる私物にCDプレイヤー、CD、パジャマなどが増える。

もうひとつのグレードが制限区分。
四種からはじまり一種まである。
四種は基本的に精神的に厳しい受刑者や素行が悪すぎる受刑者などが昼夜間独居生活を過ごすことを盛岡では指した。
三種は通常である。何もない受刑者は基本的に三種である。
二種は仮釈放面談が終わった者や無事故無違反期間が長い者が指定される。二種はプリペイドカードを購入して電話による面会ができた。
あとは職員による身体検査がパスできた。
一種に至っては鍵のない居室で過ごすことが出来たが盛岡では居室を用意できなかったため居室は通常であったが目覚まし時計を貸与され、居室で時間の経過を確認することが唯一できた。

炊場でわたしが過ごしたのはたった二週間。
若かったわたしは朝が苦手だった。
炊場は他の受刑者より2時間は早く出役し、帰りも2時間遅い。
単純にきつかったのでケツを割って逃げた。

当然、就業拒否、反則行為である。

ただ、わたしは懲罰審査会で言った。
自分はエリートでもなく、能力なんてないので単純な工場にしてください。

主張が通り、最底辺の単純作業工場、通称モタ工に配役されることとなった。

そこで5類の指定を受け約一年務めて3類になったある日雑居房に移された。
一週間ぐらい過ごして栃木の人間と揉めて工場を叩き出された。

また出役拒否による怠役で工場を去った。

もうやる気がなくなった。
周りと打ち解けようとしても馴れ合うと上手く行かず自分が嫌になった。

その後2年弱出役拒否を続けて昼夜間独居で過ごし人との関わりを避け続けた。

そんな毎日を無為に過ごしていたある日、あの出来事は起きた。

2011年3月11日14時46分。
東日本大震災だった。

頑強な刑務所が壊れるぐらいに揺れた。
職員が防御体制を取るよう怒号が響いた。

死ぬのかな、って思ったもののさすが刑務所。
壁にヒビが入った程度であった。

しかしながら電気は止まり水道もまもなく止まった。
暗闇でラジオだけが所内発電により聞けるだけだった。

何もできないので仮就寝の時間になり布団をひいて横になった。
ラジオから流れてくるのは安否確認の知らせや行方不明の方の名前を読み上げるアナウンサーの声。

港町は壊滅。
何千、何万と犠牲者が出ていることが情報閉鎖空間であっても自ずと分かった。

わたしは落ち込んだ。

なぜ人の役にも立たないことをしてわたしはここで腐りながら生きているのだろう。
こんなクズの命より、もっと生きるべき命があったのではないのか。

ただただ自分が惨めに思えた。

地震の後、懲罰審査会や担当さんから言われた。
自暴自棄でいても今は構わない。でも君の真面目な気持ちは誰かに伝わる。だから考え方変えてみても良いと思うよ。ゆっくり考えなさい。

わたしは深く考えた。
そんな時ラジオから流れてきたのは松任谷由実さんの春よ、来い。

愛をくれし君のなつかしき声がする

大切な弟や父、一緒に過ごした前妻や娘、共に共犯として捕まった彼女。

自分も生き方間違えてたな。
それに向き合えてなかったな。
周りが母のせいでそうなったんだよ、と言うから甘えてたな。
自分がしたことのツケは自分で払おう。
そして何より無駄に生きず、人のためになるように生きよう。

長い時間腐っていたがもう一度奮起しようと決心した。

そうしてしばらくぶりに配役された先は洗濯工場。
受刑者や一部職員の衣類を洗濯したり衣類を製作補修したりするのが主な仕事であった。
ぶっちぎりで暑い工場だったので寒い盛岡の冬を過ごすには良かった。

ただ一年過ごした頃から工場長が変わったりして工場全体の空気が変わった。
自分もどんどん居づらくなり、職業訓練の工場に申し込みをして同じ施設内で工場を移ることにした。

無事職業訓練の申し出は通り、わたしは造園技能士の資格の訓練工場へ転属となった。

担当の職員さんとも仲良くできていてぼくはここの工場で2類まで到達した。

怠役を繰り返し、万年5類のお前が良く頑張ったなと言ってくれる職員さんも少なくなかった。

そんな日も長くは続かない。
無事資格を所得した後は元の工場へと戻らなければならないシステムであった。

またあの不穏な工場に戻るのはまずいな…と思い素直に工場主任職員に相談した。

その結果また別の職業訓練の工場に行けるように手配するので申し出るように言われた。

自動車整備工場だった。
受刑者の中では華の工場だった。
車に触れられるのは社会に近づいている気持ちになれるからである。

ただわたしには一つ気がかりがあった。
その当時の自動車整備工場は担当職員が盛岡で1、2を争うぐらい強烈な人だった。

その職員さんがぜひわたしを取りたいと言っているとのことで尚更怖くなっていた。

無事配役審査がおり自動車の工場に移った初日、沢山の洗礼を浴びた。

担当H先生から。

まずお前は掃除だよ!

とりあえず箒を持たされた。それは半年続いた。
わたしが出所するまでで最長記録と言われた。

またその頃わたしは所内審査が通り、盛岡の通信制高校にも通っていた。
通っていたと言っても所内の教室でスクーリングをする形態である。

またH先生から。

お前はみんなに仕事やってもらって高校の勉強させてもらえてるんだよ?ちゃんと考えて行ってこい。

主席かせめて次席じゃないと俺の(H先生の)面子が立たないと言う意味も含まれていた。

常に強烈だった。

彼が通勤に使っているスーパーカブのタイヤホイールのスポークを一本一本磨かされたこともあった。

なんか社会のようで楽しくなっていた。
H先生を好きになっていた。

そんな日々も長くは続かない。
わたしが自動車整備士も無事資格所得できた頃、H先生が異動となった。

H先生は言った。
お前、俺がいなくなったからってやる気無くすなよ。ちゃんと見てるからな。

そうしてH先生は別の工場へと異動した。懲罰者の棟の担当になった。

わたしは新しく異動してきた職員とは面識はあったが特にお話ししたりはなかった。

その頃工場でいじめが発覚して何人かが反則行為でいなくなった。
わたしが工場長となった。
不安しかなかった。
人の上に立つような器ではないと思った。

ちょうどその頃優遇区分の変更時期でわたしは1類を言い渡された。

職員さんたちからも、
あの腐り切ってやる気なかったお前が模範囚?すごいね
一番初めの炊場の担当先生も
お前が俺の兵隊でも良かったのに、忙しくて見てやれなかったな、ごめんな

たくさん温かい言葉をいただいた。

頑張ることが無駄ではないと知った。
今までの人生で何かが報われたことなんてなかった。
生きてきて初めて報われた気がした。

ぼくにそうした評価をつけてくれたのはH先生だった。

その後もボイラー技士や危険物取扱者乙四、日商簿記など取れる資格は一発で取った。

その度に評価されるのが嬉しかった。

1類になることでCDを買って聴けるようになったので聴きながら勉強ができたのが良かった。
ほかの受刑者はそうはいかない。

さらにその頃、電話面会が許可されていたので頻繁に父に電話もしていた。

社会へと戻る気持ちが高まるとともに年月が深くなったことによる社会への不安、両方を抱えていた。

通信の高校も卒業し、わたしが施設で刑期内にできることはほとんど終えた。

そんな時、施設や盛岡にゆかりのある高村光太郎の祭典で献花をやってくれないか、とお声がかかった。
毎年行われている行事ではあったが序盤の行状では献花に選ばれることなんてない生活だったがこの頃、施設内で最も無事故無違反を過ごした受刑者となって職員さんや幹部職員さんからも最模範囚として扱っていただいていた。
それを感じ、踏まえて行事にも対応した。

もう所内で同囚と揉めることも一切なかった。
この頃仲良くしていた同囚は今でも交流ある人もいてみなさんそれぞれに成功をおさめており時折電話で話したりもする。

いよいよ旅立ちの日が近づいてきた。

仮釈放前教育に移り、4年弱居た自動車整備工場に別れを告げた。

以前のnoteにも書いたように社会復帰にあたり長期社会不在から慣れるための予行練習として盛岡のデパートに連れて行かれた。手錠なしだった。

そこで1000円を渡されて好きなものを食べてきなさい、と言われたのでわたしはカフェでコーヒーとケーキをしどろもどろになりながらも注文して食べた。
コーヒーもケーキも緊張しすぎて味なんかよく分からなかった。

途中で周囲が怖くなり職員の元へと戻った。
職員は

まだゆっくりしていいんだぞ?お釣り残ってるなら使ってもいいんだぞ?

とは言うものの落ち着かなくてもう戻りたい旨を申し出た。

それから数日後、いよいよ旅立ちの日はやってきた。


第三章


旅立ちの日。
領置調べ(私物の荷物片付け)を行い私服に着替える。

H先生がわたしの元へやってきた。

おう、お前。
長かったな。
ロクでもない人生送るんじゃないよ。
ていうかダサいカッコして帰るんだな。
じゃあな。

感謝しかなかった。
彼がたくさんの助言をくれたから人としてたくさんの熟成ができた。
娘さん大好きなH先生。
いつも娘さんとディズニー行くことばっかり言ってるH先生。
笑い話をした日もあった。
辛い話をした日もあった。
叱責された日もあった。
全てにありがとう。

そうしてわたしは呼んでいただいたタクシーに乗り施設を後にした。
振り返ることはなかった。

タクシーの窓に映る世界は明るかった。
キラキラしていて塀の中の灰色の日々とは違った。
残暑残る日のことだった。

わたしは盛岡駅前のファミリーマートでタクシーを降りた。

そこで下着とミックスナッツ、ミネラルウォーター、マルボロメンソール、そしてライターを買った。

案外自分で自分を出所者と意識しなければ普通に買い物はできた。

新幹線の乗車券に関してもみどりの窓口で刑務所でもらった半券の説明をしたりして買うこともできた。

トークスキルは天性のものかもしれない。
説明は下手なのに相手から聞きたいことを聞き出すことで苦労したことがない。

新幹線を待つためホームへ向かった。
喫煙所があったので早速買ったマルボロメンソールに火をつけて吸った。

倒れた。
約10年吸わなかったのに舐めていた。
喫煙所のベンチで頭がグルグルになった。
キノコ系のグルグル感をたばこで味わうとは夢にも思わなかった。

そうこうしているうちに新幹線がやってきてわたしはなんとかフラフラながらも乗り込むことができた。

新幹線は窓際だったので酔わずに済んだ。
わたしはあらゆる乗り物で乗り物酔いをするタイプで唯一自分で運転する車しか平気でいられる乗り物がないくらい。

東北の地は新幹線の窓から見ても感情にくるものはなかったが青函トンネルを抜けて北斗市に入ってきて涙が出てきた。

北海道に帰ってこれた。
長かった。
人生諦めようとも思った。
だけど諦めないでよかった。

我が闘争?笑
そこまでのものでもない。
ちっぽけな人間のちっぽけな人生の話し。

北斗市で新幹線からJR特急に乗り換えて札幌を目指す。

苫小牧付近を通ると海が見えた。見慣れた海ではなかったがその風景にまた涙が滲んだ。
こんな当たり前の風景がこんなに美しいなんて。


数奇な人生だったね。
これからは自分の道は自分で切り開く。
人に流されて自分の意思を曲げない。

札幌で乗り換えのためホームに降りる。
懐かしい。
いい時も悪い時もあったけど札幌はいい街だ。
雰囲気を楽しんでまた北へと向かうために電車に乗る。

旭川でさらに乗り換えのため電車から汽車に乗り換える。
旭川駅の外観は新駅となり見たことない姿だった。

まるで浦島太郎だ。
自分の知っている街並みがない。
胸が締め付けられた。

旭川からさらに北、稚内へ。
近づくほどに感情が込み上げてきて涙腺が緩む。
盛岡を昼前に出ていよいよ日が変わろうとする頃、稚内が見えてきた。
また見たことがない風景が懐かしい風景へ混入されていた。

胸が張り裂けそうだった。

南稚内駅を過ぎて終点、稚内駅。
駅舎が見える。
ここも新駅舎になってからはわたしは見たことがなかった。
ボロの平屋駅舎のとき通った立ち食いそば、なくなってた。

終点に着いたのでホームへ降り駅舎へ向かうと改札の先に見たことのある2人が立っていた。

父と弟だった。
2人とも歳は取っていたが変わらなかった。

わたしは改札をでて何も言わずに駆け寄った。
父も弟もわたしにすぐ気づいて抱きしめてくれた。
わたしは抱きしめられながらありがとう、と今まですまなかった、申し訳ありませんでしたとしか言えなかった。

父も弟もわたしを何も咎めることはなかった。
本当に帰ってくるのか心配だったとのことだった。

無事帰ってこられた。

そうして父と弟に送ってもらい帰宅した。
帰宅先は父が維持してくれていた賃貸マンションだった。
仮釈放で出所する大前提は帰宅先があることである。
父は毎月空の家にお金を払っていてくれていた。
父には生きているうちに返せないぐらいの恩義がある。

一人マンションの一室で床布団を敷き、眠りについた。
なかなか興奮して寝付けなかった。
食事は盛岡駅で買ったミックスナッツしか食べてなかったしまだ残っていた。

これからどういう人生にしていこうかという期待と社会に受け入れられるかの不安に苛まれた夜だった。



第四章


社会復帰は希望と不安の混沌から始まった。

帰宅してから一週間ほどで収監中に再婚していた父の相手の女性、つまり新しい母がスマホを持つように勧めた。

わたしは必要性をよくわかっていなかったが強く勧められたので買うことにした。

よくわかっていなかったがSnapdragon8シリーズ搭載のXperiaを買ってもらったので性能に不自由を感じることはなかった。

そうして買ってもらったスマホでまず家具やパソコンを買った。
他にはcubase、AKAI MPK mini、Rolandのアナログターンテーブル、Pioneer DDJ-SB2などの音楽制作系の機材、そして流行りだったのでVOCALOID 初音ミク V3を買った。
収監中、気になってCDを何枚か買って聞いていた。

これが将来的に運命を変えるとはまだ知る由もなかった。

とはいえこの段階ではいろいろと買い揃えたものの、収入源に繋がることに結びつける事はできなかった。

眠れない日が続いていた。

当面の生活費を確保するため、保護士や保護観察官の面談で仕事を斡旋して欲しい旨を申し出る。

正規のやり方である。

わたしは監察官に指示を受けてハローワークの専用窓口に行くように言われ、通うこととなった。

しかしながら、仕事は一向に見つからなかった。
地元民から知られすぎていて過去の全てを受け入れてもらえなかった。
重罪だからどう接していいか分からない、と協力雇用主に言われたときは協力雇用主辞めちゃえよ!と監察官に毒づいたこともあった。
協力雇用主は助成金が僅かながら出ているがリスクはなるべく抑えつつそうした犯罪前科者を使っている、という実績も欲しいので選り好みはするのである。

この街ではどんな仕事も見つからないようだった。
保護士も監察官もお手上げでその場凌ぎの言葉でわたしを慰めてきたのでなおさら傷ついた。

こんな人たちに頼んでたら食い扶持なくなって野垂れ死にするわ。

わたしは自分で役所の福祉課に行った。
生活保護申請である。得意分野だった。

わたしが反社だったころ、よくやっていたのが貧困ビジネス。

生活立ち行かないやつを自社物件に住まわせて生活保護を受けさせて金銭管理する、典型的なシノギをしていた。

福祉課との交渉要員として当時わたしがいた。
なので自分が受けるなど容易いことだ。
唯一警戒されることは元反社だという部分だろう。

とはいえ実際行けば容易く申請はおりた。
ひとまず生活は保証された。

ただ惨めは嫌なのですぐ次の作戦に取り掛かった。

わたしは申請がおりてすぐに安い戸建ての賃貸に引越しを決めた。

引越し業者を頼む。
地元の宅配便の委託を行ってる会社だった。

社長さん直々に見積もりに来てもらい色々身の上話をした。

するとその社長さんはわたしが昔お世話になっていた団体のオヤジの同郷とのこと。
そして結果トントン拍子で仕事を紹介してもらえることになりました。

地元の第三セクターの廃棄物処理会社だった。

その頃わたしは借金も実質あった。
過去の負債総額は800超え1000万未満だった。
サラ金による累積と信販によるオートローンが主でケータイ3キャリア分も未払いが100近くあった。

これについては時効援用できることに気づいていたのですぐに法テラスに連絡を入れて弁護士に依頼して全てに時効援用請求をかけた。

大成功だった。
見事に白い履歴に戻った。
弁護士費用は分割で完済した。

おかげで今現在では割賦、クレカ、スマホ契約全て問題ありません。

そうして新しい職場へと就職した。



第五章


わたしは新しい職場に入社した。
10月の末のことだった。

境遇を知ってる者も多々いたが大体の人が受け入れてくれた。

仕事も思ったほど汚い仕事ではなかったし、一緒になった先輩がとても良くしてくれた。

毎日食事を奢ってもらったりお取り寄せのオシャレなものをわたしにくれた。

先輩の奥さんはぼくの旧友のお姉さんで姉妹揃って似たような雰囲気なのはよく覚えていた。
ただそれだけの繋がりでとても良くしていただいた。

いまでも親交はある。

福祉のお金は早くも不要となり12月には弟から軽自動車をもらったので移動が楽になった。

大した車ではなかったが旭川や札幌へ10年ぶりに行ったりもした。

12月も終わりの頃、札幌駅の地下歩行空間に行った時のこと。
赤い羽根共同募金のコラボイベントがあったので覗いてみようと思い足を運んだ。

遠い日に時間が巻き戻されたかと思った。

黒髪にセルフレームの眼鏡をかけた女性が地下歩行空間のイベントブースでイベント用のぬり絵用紙と向き合っていた。

天の声が聞こえた気がした。
やり直すならこの人だよ。
見たらわかるでしょ?

わたしは女性に声をかけた。

「ぬり絵、上手ですね。何か創作活動とかされてるんですか?」
そうして話しの流れでTwitterアカウントを教えてもらい相互フォローとなった。

まだこの時は結婚までいくとは思ってはいなかった。

その後も札幌雪まつりで会って一緒にディッパーダンのクレープを食べたりした。なるべく接触できるように努めた。

あとそういう界隈の人なんでヤカラ感は極力消してステルスで接した。

そうして春を迎えた2018年のGWのこと。

界隈の結構規模の大きいオフ会を狸小路のカラオケボックスでやるとのお誘いがあった。
例の女性も参加するとのこと。

よし、100%参加しよう。
あと主催者に事情も伝えた。
可能な限りの下準備はする。

いざ当日。

好きです、付き合ってください

って全然言えないんだ 笑

今まで人生で散々言ってきた気もするのにこうも言葉が出ないなんて。

しびれを切らした熊本の友人が相手の女性に通話して言ったらしい。

彼(わたしのこと)はキミ(例の女性)のこと好きなの!付き合いたいんだって!

何人かが裏で工作していたらしい。
みんな面白おかしくするの好きよね。

裏で他の人らに伝えられて挙動不審になった例の女性。

多分なにかあったな、と思いカラオケボックスの廊下で言った。

もしかして誰かから何か聞きましたか?
恥ずかしいんですけど、好きです
もしよければお友達から付き合ってもらえますか?

結果、快諾だった。

32歳に春がきた。




第六章〜幕間〜


もう21年ぐらい前になる。
わたしは中卒ですぐ働き出した。

初めて働いたのは住宅の塗装をしている塗装屋だった。
初めての職場は母の昔の彼氏の職場だったり若い人材不足でとても可愛がられた。

だが、若かったことやシンナーなどの有機溶剤の過敏症だったため長続きはせず一年で辞める運びとなった。

この頃から有機溶剤の影響もあり腰痛や頚椎痛に悩まされており、わたしは思った。

やっぱり学生しよう。
そう考えてわたしは親へ夜学へ入学する旨を伝え、一年遅れで地元の夜学へ通うこととなった。

一年下の子たちとの入学だった。
ただそこに1人同い年がいた。

わたしの保育園時代からの幼馴染だった。
彼はお寺の息子ながらたいへん破天荒で余市の有名な高校を退学になり最後にたどり着いたのが夜学だった。

ほかの一つ下の子たちも男女ともに知ってる子ばかりですぐに馴染めた。

今思えば、太美スターライトというキャラクターはここで形成されたと思われる。

入学早々彼女もできた。
背が低くて痩せっぽちだったけど初めての彼女だったのでウキウキルンルンだった。

あの頃はiモードケータイだったのでアホみたいにメールした。おかげでパケ代は終わってた。
ケータイ代のためにバイトしてるようなもんだった。

とはいえ初めての彼女。
なんかちょっとしたすれ違いでケンカして別れた。1カ月くらいだった。

初めての彼女と別れて同じ教室にいるのがだるくてサボって他の女子と遊んでた。
そこで仲良くなったのがやっこちゃん。

のちに結婚した前妻である。

色々揉めた。
付き合ってすぐ悪い友達と援交で捕まって警察まで一緒に行ってあげたりもした。
相手の親とも不仲だった。
宗教二世でもあったから勧誘も受けた。
悔しくて浮気仕返したこともあった。

それでも好きは続いて、前妻の懐妊からわたしが19歳での入籍となった。

当時の自分を振り返ると何をやっても上手くいかなかった。
借金は増えるものの返すアテはない。
友達にもたくさん借りた。
返さなくていい、という友達もいたが本当に返すことができずに疎遠になってしまった人もいた。

悔しかった。
プライドもなんにもあったもんじゃなかった。
自分が世界で一番クズに思えた。

それでも打開できなくて、逃げた。
そしてモスバーガーで不倫した。

前妻に別れようと告げた。
泣いていた。

こんなやる気もない、希望もないクズと一緒にいたら一緒に一生堕ちてくと思った。


娘はわたしと瓜二つだった。
いとおしかった。
心が引き裂かれる気持ちになったが自分がクズで役立たずなんだから離れることは仕方ないと自分で自分に言い聞かせた。

大した家財ではなかったけど全て持って行ってもらいゼロからのスタートとなった。

毎日飲み歩いて酒に溺れていた。
お金も満足に持ってないのに。

同情をさそって女の子とも無駄に関係持ったりしてクズを極めてた。

その頃だった。
兄貴分と知り合ったのは。

成宮寛貴似で刺青もなく出会ったときは稼業してる人だと思わなかった。
それでも三次団体ながら頭補佐という立場だった。

最初は夜のお店に女の子を紹介する仕事をしてほしい、と頼まれたのでもらったお小遣い程度の成果は出した。

いつまでも無職プーはまずいと思っていた矢先のことだったので救われた。
同時に暇ならニュークラブでボーイとして皿洗いと女の子の送迎も頼まれたので仕事として受けた。
イキって兄貴のアリストで街を走ってはいろんな女の子に声かけした。

そんな中で知り合った子がいた。
歳はわたしの5歳下、名は鈴木と言った。

彼女は背が高かったので学生だと思わなかった。
ちょうどヤサ(住む場所)がフラフラだったので彼女の家にあがりこんだ。
母と弟の3人暮らしで母親もスナック勤めで見たことのある人だった。

彼女の母からは娘が学校卒業するまでは無茶苦茶しないどいて、とは言われたんである程度の節度は守った。

この頃から強く出てきた感情があった。

それは性別違和である。
そもそも幼少期からあった。

保育園のトイレは男子用小用を使いたくなくて大泣きした。
おままごとばかりして女の子としか遊ばなかった。
男子の友達はほとんどいなかった。
女装癖もあった。
なるべくなら女の子っぽい、もしくは中性的な服を選んで買ってもらっていた。

前妻にもカミングアウトはしてた。
初めてぼくにメイクをしてくれたのは前妻だ。

だけど女性が性対象でもあるし、兄貴分みたいな男性も憧れてそばにおいてほしいと思っていた。

節度ない緩い人間だったな、と思う。
愛がなんなのかもよくわかってなかったし
人に愛されるということもわかってなかった。

今思い返せば十分に愛されてたと思う。
愛に貪欲な生き物なのかもしれない。

当然ながら鈴木さんにもカミングアウトはした。
メイクはもちろん服も色々貸してくれたりと理解してもらえて嬉しかった。

高校卒業したら一緒に住もうか、とか笑けてくるようなセリフもお互いに言った気がする。

そんな幸せも長く続かなかった。
また自分が壊した。

自分のメンツのために、カッコつけのために、昔の彼女に加担して事件起こして。

留置場に面会すぐに来た。
高校生だったからわたしの父と一緒に来た。

言われたことは今でも忘れない。

「わたしを裏切ったな。わたしが何十年も待つと思わないでよ」

そりゃあそうだ。なんで昔の彼女ととっ捕まってんだコイツは?ってなるわ。

鈴木さんはわたしの父と二人で差し入れしてくれたミナミの帝王の内容を全部言ってネタバレして出て行った。

二人のわたしに対するイヤミと呆れ、も含んでいたと思うけど、
そんなのでわたしがしたことが済まされる訳がないのに。

手紙のやり取りではもう10年はシャバに戻れないから待たずに次の道に進んでほしい、とは書くんだけど心のどこかで待っててくれたら、なんても思った。

結論から言うと待たずに家庭を持っては失敗しての繰り返しで今現在4人の子どもがいる。
全員父親違いらしい。

そうしてわたしもシャバに出てから彼女に顔を合わせたが「元気そうでよかった」しか言えなかった。
情けないことに。
激動の10年だったろうに。
迷惑かけて申し訳なかったも言えなかった。

その言葉は前妻や娘にも言えてない。

ただ、その人たちの視界や記憶にわたしがいないほうが圧倒的に優しい世界なのでコンタクトを取ることはできない。

前妻や娘のこともスナックをやってる同級生伝手に話しは聞いており、関わらないであげて、と言われた。
ただ娘の成長した写真や話しは教えてはもらえるのが幸いである。

すべては自分がしたことへの罰。
受け入れていまを生きることしかできない。


第七章へ。


第七章〜そして現在へ〜


付き合ってすぐ、札幌と稚内の遠距離恋愛が始まった。
仕事が次の日に控えていても札幌に行くこともしばしばだった。
その距離は365km。
埋めるにはなかなかな距離ではあるが自分は車をよく走らせた。
何もないと思っていた自分の人生に花が咲いたから必死だったのだ。

そんなある日のこと、春に転職した先で作業事故で怪我をした。立会していた監督者の危険予知が足りず、自分はなすがままに怪我を負った。
そして立て続けに自分の不注意でも足場から滑落して怪我を負った。

自分にはこの仕事は向いていないのではないかと落ち込み塞ぎ込んだ。

しばらく休業したが塞ぎ込んでいる気持ちと、未来への焦燥、彼女への将来の見通しを立てることができず、以前服薬していた精神安定剤をオーバードーズ(過剰摂取)し、大量に飲酒をして酩酊状態となった。

気づいた時には救急搬送される救急車の中で、わたしの持ち物のスマートフォンで救急隊員がリダイアルトップに連絡をかけていた。
それが幸いにも彼女(現在の妻)だった。

わたしは救急車でそのまま総合病院の閉鎖病棟へと運ばれ胃洗浄を受け、尿道カテーテルをつけられて所持品を預かられてベッドに置かれた。

久しぶりに留置所や刑務所の気分になったのを今でも覚えている。

夜は明けて朝になり、わたしは自由に動けないことを理由に自分でカテーテルを引き抜いた。想像を絶する痛みだった。
そしてナースステーションに詰めかけた。
スマートフォンを返すように求めたが規則として認められないと言われわたしは引き下がった。

それからまもなく、看護師の方からこう言われた。

札幌からあなたを引き取りに来る人が向かってるそうです。退院する準備をしてください。

まさか、と思った。
そう。救急隊員が電話したことにより彼女はすぐに稚内に向かってきたのです。

彼女は到着し、やつれたわたしにこう言いました。

一緒に札幌へ行こう。

わたしはそれを受け入れた。

彼女はわたしが退院するための費用をすぐに支払ってくれたのでわたしはそれ以上拘束されることなく閉鎖病棟を後にした。

思えばそこにはわたしの実の母もいたのだがここでは割愛させていただく。

稚内を離れる準備をした。
自分で起こしたくもない怪我をした事業所とは示談が成立し僅かばかりだが街を離れる現金を得た。

この時一つ悩みがあった。札幌の彼女と付き合うほんの少し前に遊んでいた旭川の女の子(13歳年下だった)がいたこと。
後に浮気としてバレるがいま現在はそれ以上の問題を抱えることとなったので不問に処されている。

優柔不断や色狂いは罪である。
これは自分に向けた言葉である。


第八章〜札幌で暮らして〜


札幌から出る際に求人サイトのインディードで申し込んでいた仕事があった。
札幌に出るという事ですぐ採用となった。
結論から先に言うとその職を2023年秋まで続けていたが頸椎椎間板ヘルニア、長時間労働による過労等が募り募って退職した。

札幌に出てアパートを借りるまで彼女の実家を間借りさせてもらった。

彼女の家庭環境もいろいろと複雑だった。
発達障害の弟たち、独身の姉などそれ以外にもたくさんのカラー(特徴)があった。
そう言ってもわたしの持つカラーから見れば些細なことではないのかと思った。

アパートを借りて二人で同棲するようになった秋の日。彼女は母とやや仲違いをして居場所を求めて同棲が始まった。

わたしと彼女は特に物欲がなかったため黙々と働き続けた。
時に喧嘩もしたがたまにのドライブで道内各地も道の駅スタンプラリーなどでよく回った。

そんな平凡な日々の中のとある日、子宝に恵まれた。2021年初旬のことだった。
その年、わたしたちは入籍もしようやっと夫婦となった。

ちょうどその年も激務だった。
朝4時に営業所に向かい営業車を駆り仕事をし終わるのは夜21時すぎで終わって別の営業所の新人の日報をまとめ、自分の営業所に戻る。
日が回っていた。
0時過ぎに家に戻り何か口にしてシャワーを浴びて泥のように眠る。
そして朝起きて歯磨きをしていた時、事件はおきた。
咳き込んだ瞬間に崩れ落ちた。

背中から腰が痛くて動けない。
息もしにくい。
妻は慌てていたが、すぐに救急車を呼んでもらった。

救急搬送ばかりの人生である。
人生で救急車に乗った数は両手の指の数を超えている。
搬送される中、ギックリ腰かなぁ、、前の年も軽く起きたしなぁ、、癖になってしまったかなぁ、、
と思いながら病院に到着し、受けたMRIやレントゲンの結果、
頸椎、腰椎椎間板ヘルニアです。
搬送先の病院の院長先生が無慈悲に伝えた。

え、妻来月子ども出産予定なんですよ、、?
そんな、なんとかなりませんか?
わたしは言った。

ムリです。
無慈悲ながらに院長は言った。

手術も簡単じゃないし再発するしメリットばかりじゃないし、なんせすぐにその激痛治すなんてムリだから。痛み止め点滴、あとのみぐすり!すまないけどこれ以上はできないよ!

待合室で座る事もできなかった。どころか帰り、タクシーに乗る際15分以上、痛みで乗車できなくて悶絶していた。
入院してもどうしようもできないのですぐに帰されたのだった。

わたしはこの時はじめて会社を深く恨んだ。
よくもここまでなるまで都合よく使ってくれたな、と。

わたしは一旦傷病で休みをとり傷病手当を申請する生活になるも、それからまもなく子どもが生まれたので育休に切り替えた。一年丸々で申請した。
会社もそれを良しとした。

豪雪で猛吹雪の歳末、妻に陣痛が起きた。
朝四時ぐらいであった。
すぐさま支度をして妻を通院先の産科へ自家用車で送り届けた。
看護師さんからはわたしは一旦家に戻るように言われた。大体病院を後にしたのが朝五時過ぎだった。
そして家に戻ってストーブで暖を取っていた六時頃。病院から電話がきた。

奥様、生まれそうですよ。
え?早くないか?

わたしは再度車を駆り、病院へと戻った。
わたしがついて妻はすでに分娩台にいた。
全員戦闘体制。
しかしながら自分は、妻は初産だぞ?こんな陣痛三時間程度で生まれることある??って思いながらも口に出せないでいた。

無事に子どもは生まれた。
2,820gの男の子だった。
人生ではじめて出産に立ち会った自分は感動で涙があふれた。
今思えばこうした一つ一つの大切な気持ちを日々念慮することに自分自身欠けていたと思わざるを得ない。



第九章〜育児休業〜



育休に入り、収入は当然ながら減った。
貯金を崩すこともあった。
商材になるアニメのフィギュアなんかをフリマサイトなんかで売ったりしていたがノウハウもなく限界を感じていた。

そんなある日、家電量販店でこんなポップを目にした。

iPhone12一括1円

元々Android利用者だったのでそれまであまりiPhoneに興味がなかったのだがこの時は乗り換え(MNP)で購入し契約してみようと思ったのだ。
なぜなら、楽天モバイルが一年間利用料金無料キャンペーンをやっていたころに契約した回線が余分にあったのだ。

そもそもわたしはケーコジではなかったが原神というオープンワールドRPGをしておりマシンパワーの出るスマートフォン端末しか使うことをしていなかったのでその当時使っていた
SHARP AQUOS ZERO2
Samsung GALAXY S10
これらの機種もMNPによる特価割引にて購入契約をしておりMNPの仕組みはわずかながら知っていた。

そして手に入れたiPhone12。
契約を担当してくれた方の勧めもあり某買取店で即売した。

あ、これじゃん。
わたしの中のパズルのピースが嵌った音がした。

それからわたしは育休の傍らにMNPをして貯蓄を減らさないよう努めた。
数々の凡ミスもしてきたが特定の代理店と懇意になったりして家計は潤った。

育休中は家族で色々な場所へ出かけたりもした。
時に某家電量販店で値切って購入したJBLのBluetoothスピーカーで誰もいない田舎の公園の芝生に家族で横たわり音楽を聴きながら過ごしMNPから離れる時間も作った。

そんな時間は永遠ではなかった。
わたしの育休期間の終了時期がきた。

正直、それまでに経済的自立を果たそうと思いはしたが息子が小さい時の時間は限りあるため家族の時間を最優先にした。その結果、育休の終わりまで答えを出せずに到達してしまったのだった。

わたしはしぶしぶと会社に復帰する旨を伝えたところ部署変えの上ですんなり復帰する運びとなった。
寒さ厳しい12月の中旬のことだった。

移った部署は整備部門。
わたしは曲がりなりにも刑務所では整備工場の工場長を務めたので当然ながら有資格者なのでそのような配属となった。

復帰してすぐの話である。
ヒーターが壊れた搬送車を運転して北見市まで行って中型の除雪機を入れ替えてきてほしいと頼まれた。

今冬ですが?
北見まで300kmぐらいありますが?

そもそも色々おかしかったが同い年の相棒が
「行くやで」
そう言ったんで腹をくくって北見へと向かった。

道中行きは日差しがあったのでまだよかった。
Twitterを見たりする余裕もLINEを返す余裕もあった。
しかし遠軽町あたりで雲行きは怪しくなってきたのだった。

まず路面状況が悪い。
なんかタイヤ良くないなー、と思い道の駅で止まった際にタイヤを見ればブリヂストンだがズルズルタイヤ、、
そして車両搬送車。当然ながらFR。
試練すぎる。
そして車内凍結。
ヒーターが効かず、自分たちの吐息の湿度でウィンドウなんかが凍るのだ。

北見からの帰り、何度死を思ったのか分からない。
刑務所をはるかに上回る苦行だった。

道央道岩見沢付近で札幌の明かりが見えてきたとき、相棒に
「帰ってこれたね」
と言うのが精一杯だった。
USB給電式電熱ベストもモバイルバッテリーが底をつき冷え切っていた。

無事に江別西で降りて東雁来が見えてきたとき会長から電話がきた。
「生きて帰ってきたか?」

うるさいよ。
恨み節たらたらでわたしは帰る旨だけ伝え帰宅した。

思えばこの時から仕事を続けていきたいとは思ってなかったが自分が我慢するしかないと思うことしかできなかった。



第十章〜依存症〜



みなさん。依存症と言えば何を思い浮かべますか?

薬物依存、アルコール依存、過食、性依存、買い物依存、、、
モノが溢れる現代では様々な依存症がある。

ここでは共依存についてとある話をしていきたい。

復帰した仕事は毎日憂鬱だった。

そんなとき、Twitterを見ていたらとある情報商材が目に留まった。

アプグレnote

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