【あれこれ】「出会い」への回答
出会うってなんなんでしょう。
最近出会った7つ下の大学生が言いました。
「出会うってそれまでの積み重ねを肯定すること」だと。
文明の利器を使わずに自分の手で起こした火のような熱があります。とても真っ直ぐに、ぼろぼろの手を誇らしげに握手を求められたような気がしました。
3年くらい前に出会ったフリーターが言いました。
「俺は出会うって否定することだと思ってたかもしれない」
「どうしたらちゃんと出会えるようになるのか」と。
わざと不純物を混ぜて作った蝋燭みたいな熱でした。こんな手だから無理なんだと、ひらひら手を振って握手を回避しているような気がしました。
今年に入ってから出会った大学生が言いました。
「出会うには、そういう出会いを繋げる人を掴まえるのが早い。私がそういう人なんですけど」と。
私の知らない独自の化合物がじっくり燃えているようで。握手を求めることも想起させないほどの泰然自若、ただどっしりと構えて落ち着いて見えました。あるいは、宙を漂っている気配がしました。
私はただただ棒立ちしていました。悔しい。
オンラインで話してたから座ってるんですけどね。
聞こえてくるのは回らない頭が空転する音だけ。
昨年の夏くらいから頭の冴えない日が増えていって、冴えない度合いも悪化の一途を辿っています。
今週遂に保健師さんと面談して、休職のカードが手札に加わりました。欲しくて欲しくて仕方がなかったカードなのに、いざ目の前にあると目を逸らしてしまう。
もはや自分の使命からも興味からも外れてしまったこの仕事に、それでも踏ん切りがつかないのはなぜなんでしょう。まあたぶん、こんな状態のまま即退職するのは悪手なんだけど。
もっと快復して元気に退職したいところです。
で、話を戻して。
頭が回ってきてから考えると、私も「積み重ねを肯定すること」に近いですね。
少し前まで誰かと出会えたことに対しては、
「このタイミングじゃなければありえなかった運命的なもの」と言っていたし、
「人生は伏線回収だ」
みたいなことも言っていました。
今でもそんな感じではあるのだけど、なんか少しずれてきた気がするんですよね。
たぶん歳を取り過ぎたから。
いやあ28歳を迎えるに当たって運命って恥ずかしくなってきちゃいました。
使っても良いよ。使っても良いんだけど、私が使う言葉はもう少し前に進めなきゃいけない気がしてきたというか。
ある程度物事がわかってきて、ある程度自分のことがわかってきたわけで。
思い切って踏み込んだらたまたま良かった、という枠から進みたいのです。そこに居続けても満足できなくなってきているから。
ドン・カ・ジョン、という方がいます。
ハガキに願い事を書くと、それを絵とか詩にしてくれるという活動をされている方です(これしか知らず、本当は全然違う名乗り方をされているかもしれない)。
学生の頃に1度だけ送ったことがあります。
クリスマスくらいに浅草のビルの一室に、私のハガキを含めて数百枚の願いが飾られていました。一度個展にして、その後に返送してくれるシステムだったんですね。
ずっと忘れていたこの時の願いを思い出しました。
君に会えますように
普段、二人称は「あなた」を使うことが多いのだけど、この時は「君」を使いました。
ユニゾンのせいですね。ユニゾンがきみっていっぱい言うから。
たぶんずっと寂しかったから。誰かを待ちわびていたから。
だから会えますようにって願いを込めたんだと思います。
この君は別に思い人的なことじゃなくて、未来に出会えるかもしれない子ども、ずっと仲良くしているかもしれない友だち、人生の岐路に立っている誰か。
まあだから誰かに見つけて欲しかったのでしょう。
この見つけて欲しかった、というのをそろそろ抜け出す時が来たのではないか。
というのがここでの発見です。発見というか突きつけられたというか。
今も昔もずーっと苦手なんだけど、もう少し進まなくちゃいけないんです。もっと素敵な何かになるために。
もう一度ハガキを送るなら、
今からあなたに会いに行く
このくらいは言っておきたいところです。
運命だなんだと待っている時間は終わらせて、自分で出会いに行く気概で生きていたいのです。
この寄稿者の前回記事↓