【あれこれ】特に理由のない不登校経験が自分にくれたもの
はじめまして。人生ノ素人と申します。
先日、不登校ラボの方から寄稿のお誘いを頂き、僭越ながら初めて書かせてもらいます。
最初ですので、軽く自己紹介をさせてください。
私は今年度から大学4年生になる元不登校で、大学では心理学を主に学んでいます。
小学1年生の頃から中学3年生まで不登校で、フリースクールに通っていました。
今は目標である大学院への進学に向けて、日々"なるべく"頑張っているところです。笑
好きな食べ物はお寿司・蕎麦などの日本食とお酒。唐揚げにはレモンをかける派。
趣味は、音楽鑑賞と読書が特に好きですが、その他にも落語、プロレス、アイドル、絵を描く、旅行、野球観戦などなど…。
沢山あるので、この話はまた機会があれば…!
さて、初めて寄稿させて頂くにあたり、最初なにを書こうかと色々悩みました。
しかし、こちらは不登校経験者の方が現在のお話を書かれているとのことですので、
私も最初は不登校経験の話を少しさせて頂ければと思います。
と、言いながらも「さて私が不登校になったのは…」と書き始めて間もなく、早速手が止まってしまいました。振り返ってみると、私の不登校の始まりは全く記憶にありません。なぜなら、本当に何もなかったからです。
というのも、私の場合は何かキッカケがあったわけではなく、親の推薦で不登校になりました。正確に言うと、親の教育方針が比較的自由で「学校もそれ以外も含めて、自由に自分で選択して良い」というタイプでした。
ひとり親家庭で、とても甘やかされていた小1の自分にとって、登校という面倒くさいことをする意味も、親がそこまで重きを置いていない場所に行く理由もなく、もっと言えばあまり何も考えず結果的に不登校になっていました。
辛い体験がなかった訳ではありません。不登校になったことで、昼間に街を歩けば大人の方から「学校は?」と声がかかるのは嫌でしたし、離れて暮らす方の親から「学校に行かなければ将来どれだけ困るか」を語られる時間も苦痛でした。
フリースクールでも、人間関係に悩むことが多くありましたが、でもそれは単にその状態が辛かっただけで、学校に行っていないこと自体は本当に何とも思っていませんでした。
その状態自体も、今思えばそこまで思い詰めてたこともなく、心が強いというより、本当に何も考えてなかったんです。
毎日フリースクールにも通い、友達もいた私にとって、不登校の状態は「常識」「当たり前」といっても、過言ではありません…。私にとって「不登校」が意味を持つ現象になったのは、フリースクールを卒業し、通信制高校に進学した後です。
高校進学後、家庭のこと、フリースクールでのこと、自分自身のことに関する大きな辛いことが度重なり、一年ほど心が沈んだ期間が訪れました。その期間で、改めて自分を振り返った時「自分には何もないんだ」とすごく病んだのを覚えています。
そう考えて勝手に落ち込みながらも、冒頭で述べた趣味や友人との関わりの中で回復し、現在に至っています。なんであそこまで落ち込んで、なお今のように時々辛く、時々楽しいような日々に戻れたのか。回想する中でこんなことを考えると、不登校経験が重要だったなと思い当たりました。
何もない、と言いつつ、何かはあったんです。それは自分では気づけないほど曖昧で小さなものでしたが、不登校の期間で趣味や友達等の外的な側面から、内省や自分の考え等の内的な部分まで、知らずに熟成されていた。
生きる基盤のようなものが生まれていたのだと思います。
その意味で、不登校経験は特定の何かではなく、その総体として「自分の出発点」をくれました。
今、私は大学院へ進学してアイデンティティの研究をしたいと考えています。アイデンティティとは、簡単に言うと「自分が自分である感覚」のこと。
不登校経験から心理学に関心を持ち、知らずに生まれていた”内省好きな性格”という基盤から関心を持ったテーマの研究を目指しています。
今回のように寄稿のお話を頂いたり、試験に向けて心理学の論文を読む中で思うのは、人生や仕事に直接的に生かしたり、無理やり意味を見つけなくても、生きることを選択した基盤には不登校経験も必ずあり、知らずに意味を持っていたりする、ということです。
多くないタイプの不登校経験者だったかもしれませんが、一応いち元不登校として、今は生きることを楽しめています。まだ自分も知らない不登校経験の意味に想いを馳せながら、これからも生きていければと思う今日この頃です。