信じるものは騙される~仏教が信仰を否定する理由
スマナサーラ長老の初期仏教月例講演会より
🤔 「信じる者は騙される」という一般的な言葉とは逆の立場。
🌍 仏教は世界的に広まり、信仰や信じることは重要な要素。
🙏 仏教の教えにおいても信仰は重要視されているが、信じることには様々な問題が存在する。
🛐 神様や呪術、祈祷、迷信など、信じる対象はさまざまであり、正当性を明確にすることは難しい。
💭 信仰には証明可能性がなく、個人の信じる意味合いや理由に基づく。
🌌 信じる対象の存在や力については様々な信念があり、それぞれの信じることに基づいて行動する。
👻 幽霊や霊能者の存在についても、信じるかどうかは個人の判断による。
🧠 形而上学や哲学的な信念も、信じることに関連しており、証明不可能な側面がある。
⚠️ 信じることには危険性も存在し、注意が必要である。
信じる者は騙される――ブッダの教え
概要:
この講演では、信仰が否定される理由について考察します。通常、「信じる者が救われる」と言われますが、この講演では逆の立場から「信じる者は騙される」という視点を採ります。スマナサーラ長老は、人々が信じることによって起こる様々な問題や、お釈迦様が宗教について語ったことを取り上げ、信仰の本質について考えます。
信仰とは何か:
初期仏教の立場では、「信じる」という言葉には一般的な「belief」と宗教的な「faith」の二つの意味があります。この講演では「信仰」とは、あいまいで曖昧なものであり、神様や呪術、祈祷、迷信などを信じることを指します。信仰は確かめることができないものであり、例えば神様の存在を証明する方法は存在しません。
信仰の特徴と問題点:
人々はさまざまな信仰を持っていますが、それらは正しいかどうかを明確に整理することはできません。例えば、日本ではほとけ様を信じる信仰がありますが、その内容は明確ではありません。また、西洋では神様を絶対的に信じる傾向があります。また、呪術や祈祷などの宗教活動も信じられていますが、それらの効果や理由は証明することができません。
信仰と証拠:
信仰とは、証拠がないものを信じることです。例えば、頭痛がある時にバファリンを飲むと頭痛が治ると信じる必要はありません。これは事実であり、証拠が存在します。また、勉強しないとバカになるということも証拠に基づいています。しかし、信仰にはそれらのような証拠は存在しません。信じる理由を証明することはできないのです。
信仰は騙される可能性があり、確証を持つことができないものです。私たちは、信じることによって心の安らぎや成長を求めるかもしれませんが、ブッダの教えでは信仰の否定が示されます。信じることに盲目的に従うのではなく、自己の疑問や理性を持って考えることが重要です。
疑いこそが真理に導く
🧠 スマナサーラ長老は、仏教において疑念こそが真理への道であると主張しています。
📜 お釈迦様がある町を訪れ、人々の教えや信仰についての議論。
🙏 人々はお互いに異なる信念を持ち、それぞれの教えが正しいと主張。
⛔ 仏教は他の教えを否定するのではなく、疑いを持つことが重要。
📚 伝統的な知識やテキストだからといって、真理の基準として受け入れない。
❓ 理屈や論理だけでなく、実際の証拠や経験をもとに物事を考えるべき。
仏教における疑いの重要性
有名な教えがあります。これは「カーラーマ・スッタ」と呼ばれ、Aṅguttaranikāyaというテキストに含まれています(増支部経典)。まず、ストーリーを理解しましょう。ある日、釈迦(仏陀)はある町を訪れました。その町には知識人たちがたくさんいましたが、釈迦の話にはあまり興味を持ってくれませんでした。話をする前に、彼らはこう言ったのです。「我々の村には様々な宗教の人々が訪れ、自分たちの教えを熱心に説くものです。
彼らは他の人々の教えを完全に否定し、間違っていると主張します。」しかし、別の人がやってきて、「私の教えこそが正しいのであり、他の人々の教えはまったくの誤りです」と言います。このように、対立する思考が存在していました。ある人は運命論を語り、全てが運命によって決まっていると言います。別の人は運命論を完全に否定し、またある人は死後、永遠の存在へと至ると主張し、さらに別の人は死後に全てが終わると言います。
そして、それぞれ自分の主張こそが正しいとし、他の人々の教えは間違っていると主張します。こうしてお互いに相反する意見がたくさん存在していたのです。
疑いに基づく真理の探求
このような状況に対して、釈迦は言いました。「私たちは他人の話にはまったく耳を傾けません。なぜなら、はっきりと正しいかどうか分からないからです」と。
そして、釈迦は「疑うことこそが素晴らしいことであり、真理を追求する手段である」とも語りました。彼はみんなが疑うこと、信じないことこそが正しいと言いました。何かを理解するとき、私たちはどのように考えるべきか、どのような方法で物事を理解すべきか、釈迦は「認識論」について話しました。
私たちが物事を認識する際には、危険な落とし穴がたくさん存在します。それらの危険な考え方を避けるべきだと釈迦は教えました。信じる方法ではなく、物事を理解する方法、すなわち「知識」とも言える方法を釈迦は説いたのです。
釈迦は「私の言葉を信じなさい」とは言っておらず、むしろ「認識論」について語ったのです。そして、やってはいけないことをいくつか述べました。
神の言葉や伝統を真理の基準にしない理由
まず、mā an ussavena(インドの言葉)というフレーズがありますが、皆様にはあまり馴染みがないかもしれません。私が勝手に日本語に訳したものであり、必ずしも適切ではありません。
このフレーズは「神の言葉や聖典を真理の基準にしない」という意味です。māは「いけません」という意味であり、anussavaは「聞いた」という意味です。具体的には、神に聞いたということです。
これにより、釈迦はヴェーダ聖典を批判しています。釈迦は自分の社会の問題について話していたのですが、バラモン(インドの最高階級僧侶)たちは自分たちに秘密の聖典があると主張し、その教典は神から直接仙人たちの耳に届いたものだと言っていました。
神のお告げを聞いた人がそれを他の人々に伝え、その言われた人がテキストを作ることもあるのです。すると、みんなは「これは神のお告げなので信じましょう」と一斉に信じてしまいます。しかし、もし「これは神の言葉だ」と言われた場合、仏教徒は「それならば信じません」と言い、受け入れないのです。なぜなら、それが正しいかどうかを確かめる方法が全くないからです。
聖書に書かれているからと言って、それが真理であるとは限らないのです。神の言葉と言っても、嘘をつくこともあるからです。
実際、約10年前くらいの話ですが、マリア(キリスト教の聖母)がいくつかの場所で現れ、オーストラリアにも3カ所現れたと言われ、それに基づいてテキストが作られたことがあります。
その人々は世紀末だとして特定の日付を設定し、その日に神が降りてくると主張しました。私は冗談で考えるのはキリスト教徒の方々でしょうが、彼らはなぜか恐れていました。なぜ恐れるのかは別として、その日付にはその宗教を信じる人々が集まっていました。
しかし、何も起こらなかったのです。それからその担当者が現れて、「マリアが計画を中止しました」と後日説明したそうです。そして、「明日教える予定だったので、帰ってください」と大勢の人々に伝えたのです。
私なら馬鹿にすることも言いますが、みんなは「そうですか、わかりました」と解散するのです。信仰は捨てられません。ですから、論理的に考えれば、もしマリアさんがそんな神だったら、自分で決めた日付で実行できないことくらい分かるでしょう。たとえ隕石が地球に衝突して破壊されると言われたとしても、私にはできませんが、数学の得意な人にとっては日付だけでなく、時間や場所まで計算できるはずです。
神様にはそれができないのです。ですから、信じるのは馬鹿だけだと思います。しかし、釈迦は最初に「聖典等は真理の基準にするな」と説いたのです。
2番目のポイントは、mā paramparāya paramparāというフレーズで、「伝統的な知識を真理の基準にするな」という意味です。私たちは昔からそのようにやってきたとしても、それが真理になるわけではありません。
なぜなら、何千年も同じことをやってきたからと言って、それが真理であるとは限らないからです。ですから、伝統や昔からの言い伝えを真理の基準にするべきではありません。もし自分自身がそれがおかしいと気づいたら、やめればいいのです。
伝統と言っても、馬鹿げたことをやっている場合もたくさんあります。
3番目: お釈迦様の言葉の曖昧さと推測
お釈迦様は専門用語をあまり使わず、一般的な言葉で話されます。したがって、「itikirāya」という言葉はおそらく「こうではないかもしれない」「もしかするとこうではないか」といった曖昧な推測の意味合いを持っています。日本語での「Guess」は「推測」と言いますが、それよりも軽いものです。例えば、カードゲームでカードの表を見せずにキングを当てる場合、単に当てるだけであり、推測は後から来るものです。子どもの遊びでも同じです。
4番目: テキストの真理への誤解
「piṭaka」という言葉はテキストのことを指します。しかし、テキストに書かれているからといってそれが真実とは限りません。人間には、テキストにあるものを真実だと信じがちな傾向がありますが、実際には後でそれが真実ではないことが分かることも多々あります。したがって、テキストが存在するだけで真理の基準にはなりません。特に古典的なテキストは、信じる傾向が強いですが、それを否定することも必要です。
5番目: 理屈と信じる必要性
理屈ばかりを述べる人がいても、それが理屈であるからといって信じる必要はありません。理屈には二つの種類がありますが、単なる言葉の遊びや概念の遊びに過ぎず、必ずしも良いものではありません。理屈では何とでも言えることもあります。
6番目: 純粋論理と真理の関係
「naya」という言葉は、少しはまともな論理を意味します。しかし、純粋論理や記号論理のように、論理の世界では「A = B」という表現は成り立ちますが、実際の世界ではそうではありません。紙の上では「A = B」と言えますが、実際の証拠が示されると、「A = B」という証拠は存在しません。したがって、数学的な純粋論理では成り立つことでも、実際の世界では成り立たないこともあります。純粋論理を持ち出しても、それは真理ではありません。
形式論と数学の関係について
形式論は、西洋でも一般的に用いられる考え方であり、数学でもよく使用されます。形式を利用したり、形式や形状を論理的に考えたりすることがあります。"parivitakka"という言葉は、非常に深く考えることを指します。例えば、難しい数学の問題など、数学が得意な人は解くことができるかもしれませんが、それは頭で遊んでいるだけであり、現実の世界にその真理が存在しているわけではありません。私の知識によれば、例えば1を3で割ると、数学の世界では無限の小数になりますが、実際の世界では3等分にすることができます。数学的には小数として表現すると不可能ですので、形式的な論理をあまり使用するべきではありません。
可能性と世紀末論について
可能性については注意が必要です。例えば、地球を破壊する可能性は科学的に考えればあり得ると言えます。そのため、世紀末論を信じる場合も、その可能性を考慮する必要があります。地球の破壊が起こる可能性があるという理由で、世紀末論を否定する方法を尋ねられることもありますが、個人的にはその考えを完全に否定しています。ただ、可能性にかかわることには注意が必要です。
自己の意見と真理の関係について
自己の意見に合わせて真理を判断することはよくありますが、それは真理ではありません。自己の意見に同意するだけで、「その通りだ」と飛びついてしまうことがあります。しかし、嘘は嘘であり、真理とはなりません。そのため、自己の意見も一旦置いておくべきです。
お釈迦様と真理の基準について
(23:03) 「お釈迦様」は私たちにとって非常に尊い人物であり、「garū」という言葉は「とても尊い人だ」という意味です。お釈迦様は自分自身さえ否定することがありますが、それでも私たちは彼を尊敬し、信じるべきだと思います。しかし、その信じることが私たちにひどい結果をもたらすこともあります。したがって、「語る人のカリスマ性や偉大さを真理の基準にしない」ことが重要です。なぜなら、偉大な人であっても、時には奇妙なことを言うことがあるからです。
真理の基準としての自己確認と理解
(24:04) 真理の基準とは何でしょうか? "ya dā tumhe attanāva jāneyyātha..."という非常に長い文章ですが、それは「自分で確かめて理解すること」を意味しています。他人に頼るのではなく、自分自身で真理を確かめる必要があります。私たちは仏教において、信仰に対して非常に厳密に知識と智慧を使います。ですから、誤解を避けるためにも、できるだけ正確になるよう努めています。それが仏教の立場です。
仏教の立場を説明する - お釈迦様の信じ込まない姿勢
仏教の立場を説明するとき、次のポイントがあります。それはお釈迦様がどれほど信じ込むことを断ったかという例です。
お釈迦様は、智慧に基づく研究者であり、物事を探究して真偽を確かめる存在でした。彼は他人の心を読む能力は持っていませんでしたが、自分で調べたいと思っていました。そのため、ブッダについても調べるように言われました。お釈迦様が本当にブッダであり、真理を悟っているのかを調べなさいという意味です。
仏教には他の宗教にはない特徴があります。仏教の教える側は、批判や疑問を受け入れる姿勢を持っています。そのため、仏教は知識と智慧に基づいていると言えます。お釈迦様は「私はもう真理を悟りました」と言っていましたが、その言葉を権威として使ってはいけないとも教えています。自分自身やブッダについても調べることが重要であり、他の比丘たちも如来が正覚者であるかどうかを観察すべきだと言われました。
ヨーロッパの学者たちは東南アジアの仏教に共感を持っており、自由な研究ができる環境があることに驚いています。仏教の教えはオープンであり、批判に耐えられるものであるため、調べることが奨励されています。ただし、仏典の研究には困難もありますが、それでも調べることが大切だと言われています。
お釈迦様の教えは太陽に例えられます。隠れることなくオープンにすることで、その力が分かります。お釈迦様の教えは秘密にされるべきではなく、どんな批判にも耐えるべきです。初期の仏教は密教ではなく、秘密の教えもありません。仏教は真実に輝くためにオープンであるべきです。
お釈迦様について調べる方法については、経典の中で詳しく説明されています。特に「Majjhimanikāya(中部経典)」の47番目の経典に注目すべきです。日本語訳もありますので、読むことをおすすめします。お釈迦様は他人の心を読む能力は持っていませんが、彼の教えを調べることで、真実が明らかになるでしょう。
認識手段は目と耳
「cakkhu(目)」と「sota(耳)」は私たちが情報を得るために欠かせないものです。私たちはほとんどの情報を目や耳から得ます。例えば、香水研究のように鼻を使う学問や、料理研究のように口や味を頼りにする学問もありますが、一般的な学問は目と耳に依存しています。だからこそ、人間の認識手段は主に目と耳なのです。仏陀は私たちに視覚と聴覚に関する情報を調べ、その方法を説明しています。
目と耳からの情報で調査
視覚には仏陀の姿や他人の生活の様子、歩き方や食べ方、性格などを徹底的に観察することで、その人の心が浄かでないことや貪瞋痴(欲望、憎悪、無知)があることが分かります。また、仏陀の言葉にも注目し、愚かな者にも同じような話ができるかを考えることで、仏陀には煩悩がないのではないかと推測できます。しかし、仏陀は情報を広く取得しているので、自分たちの宗教の創始者であり、仏陀よりも偉大な存在はいないということも調べるべきです。
仏陀は堂々と出家している比丘たちに、初期仏教が信仰とは縁のない教えであることを語っています。それでは仏教の「信(saddhā)」という言葉は矛盾しているのでしょうか?仏教には悟りに必要な条件として「信」という要素がありますが、それは仏教の教えを権威として受け入れることではなく、根拠や疑いもなく真理であると納得する自信のことです。
「信」とは確信と自信を指す
「信(saddhā)」という言葉は仏教で使用されますが、それは単に信じることではなく、証拠に基づいた確信や自信を指しています。英語でも「信」は「faith」や「belief」ではなく「confidence」と訳されます。仏教を学び、観察し、他の教えと比較した結果、最終的に真理と納得するまで、時間と努力が必要なのです。
時間と勇気を要する学びの道
仏教の学びは時間と勇気を要します。研究し、調査し、自分が納得できる結論に達するまで粘り強く学ぶ必要があります。疑問を持ちながらも、固定概念や信念が揺らぎ、自身の信仰が崩れるかもしれません。それでも覚悟を持ち、恐れずに向き合うことが大切です。研究の過程で、知識を積み重ねるだけでなく、精神力も必要です。勇気を持って、象に挑むような覚悟を持ちながら、真理を求める道を進むのです。
学問的な研究を長年積み重ね、結論に至ったものは、絶対的な真実や唯一の答えではありません。それはあくまで「おそらくそうだろう」という程度のものであり、それ故に「信」という言葉を使うのです。これは、信念の強さではなく、妥協や軽はずみさでもありません。多くの研究と努力を経て得られた結論であり、それが個人的に納得できるということです。この納得感は個人にとって大切であり、自らの努力によって得られなければなりません。同様に、信仰においても個人が納得しているのかどうかが重要です。それは脅迫や抑圧によってではなく、大いなる力や神々、呪文など何であれ、自己満足的なものではありません。
この信仰の違いは、大いなる力や信じることに抑えられているだけであり、納得しているわけではありません。納得とは個人が自らの判断に基づいて納得することです。例えば、子供に何かを伝える場合でも、両親の力に頼るだけでなく、良く話し合って理解し合い、子供が納得するように努力しなければなりません。このように時間がかかるかもしれませんが、根気よく取り組む必要があります。知識の人々も同様に行動します。彼らは「子供だから手を抜いていい」とは言いません。「私が嫌だからやめなさい」とも言いません。それは性格が悪いからです。本当の知識を持つ親ならば、その結果に対してどうなるかを子供と一緒に考えます。
もし理解できないことがあるなら、より詳しく説明したりエスカレートさせたりして示すことができます。例えば、少し物を盗んだとしましょう。その子供は自分が悪いとは思わないかもしれません。しかし、盗むことは他人のものを無断で持ち出すことです。自分で買わずに取るということは、少なくとも問題がある行為です。それならば、これが限界ならどうしますか?銀行強盗になったらどうしますか?他人の車を盗んだらどうしますか?世の中にはこのような例がたくさんあります。それに対してあなたはどう思いますか?ですから、悪いことは小さいものでも大きいものでも同じであり、悪いと言えるのです。また、その子供の世界で自分に不快なことがあるかもしれません。例えば、子供は自分の宝物を大切にしているかもしれません。
もし大切なゲームなどを、父親が無断で持ち去り、誰かに与えたら、あなたはどうしますか?もし分からないのなら、わざと自分の大切なゲームを他人にあげてしまうことで示すことができます。子供が探しても見つからないとしたら、なぜなのかと怒るでしょう。父親は平気な顔で「それは誰かにあげましたよ」と言うでしょう。その場合、あなたはどうしますか?「パパのこと大嫌いだ」と言うかもしれません。しかし、その時に説明することができれば、その場を収めることができます。ですから、納得することは個人の問題であり、納得するには証拠が必要です。仏教の「信」とは、このような納得感を指しており、矛盾しているわけではありません。
信じることは簡単ですが、真の「仏教徒」になることは非常に難しいのです。仏教を信じると言っても、仏教はそれに興味を持ちません。「そうか」と言っても特に興味を示さないのです。実際のところ、お釈迦様が「この人は仏教の信者です」と言ったのは、悟りを開いた人のことを指しています。悟りには4つの段階があり、最初の段階でも経験した人は「信」を確立したと言われます。そのため、本当の意味で初期仏教を信じている信者は数が少ないのは当然のことです。それは一般的な状況であり、特に悲しむことでもありません。むしろ普通なのです。信じることは誰にでもできるからです。
ここで、仏教の「信」と信仰の違いについて考えましょう。仏教は、人々の自由と知恵を尊重しますが、信仰は否定します。先ほど説明したように、信仰によると自由はなく、無知に基づいています。確かめようとする必要がありません。信仰を確かめてしまうと、それは大きな罪であるとされます。したがって、仏教の「信」とは、人々の自由と知恵を認め、明確であり、知識を確立していくことです。これは、知識をしっかりと持つ努力の結果であり、精神的に活発になることを意味します。
仏教の「信」を持つためには、相当な努力が必要です。一般的には、他の身体的な努力よりも、学び理解することが非常に楽しいのです。人間が最も幸せを感じるのは、物を作ったり畑を耕したりするよりも、学び理解したり知識を得たりするときなのです。物事を知ることは何か楽しいものです。世の中で最も楽しいことは、物事を知ることです。それを知るためには、いろいろなことを勉強し、理解し、知る必要があります。ですから、私も苦労しながら文句を言いながら、年をとっても新しいプログラムを学んでいます。それに対して全くうまく動かないと、会社に調べてもらったら、問題だらけだとわかりました。それでもなお、分からないことに挑戦したり、知ることは楽しいのです。
食べなければ分からない - 宗教の世界における質問
一般的な質問ですが、食べずに饅頭が美味しいかどうかわかりますか?宗教の世界では、私も子どもの頃によく言われました。いろいろな悪口を言うと、「あなた方はそれでは分からないのだ」と聖書などに書かれており、まず神様を信じてみなければ分からないというのです。私はキリスト教を勉強しながら、さまざまな質問をすると、向こうは最終的に信じなければ意味がないと言ってきます。一番言いやすい反論は、「饅頭はおいしいかどうか、食べなければ分からない」ということです。
信仰と科学の関係
では、私たちはどう答えれば良いのでしょうか?私の立場では、これは自己暗示やマインド・コントロールだと思います。毒かどうかは食べてみなければ分からないという反論もできますが、饅頭の場合はやはり食べた方が良いと分かります。しかし、毒の場合はどうでしょう?それも食べなければ分からないので、食べてしまって死ぬことになります。だから、人はそういう理屈で説得してはいけません。
固定概念とマインド・コントロール
ある人が子どもの病気を祈りで治すようお祈りし、結果的に子どもが治ったとします。その人は「私はお祈りしましたし、子どもの病気が治りました。ゆえにお祈りは効くのだ」と解釈します。しかし、これには証拠はありません。科学的な証拠を得るためには、病気の人々を選んで、お祈りだけするグループと普通の科学的治療をするグループに分ける実験が必要です。しかし、そういう実験は現実的には難しいため、解釈にすぎません。固定概念が入ってしまうと、その固定概念で考えることになり、マインド・コントロールになってしまいます。
宗教に対する誤解 - 信じる前に疑って調べるべき
日本の社会では、宗教に対して違和感や嫌悪感を持つ人が多いですが、それもマインド・コントロールです。本当に嫌かどうかは、一つずつ調べなければ分からないことです。信仰の場合、「信じなければ分からない」ということを認めますが、仏教は「まず疑え」と言っています。疑って調べることから始め、私たちが間違う方法も教えられました。信仰から経験へ至る道をたどるためには、まずは先生を信頼し、その教えを聞き、覚え、その意味を観察する必要があります。
信頼して学ぶ仏教の道
仏教の教えでは、まず先生を信頼してその教えを学びます。そして、学んだことを覚え、その意味を観察します。誰の話でも覚えておくことは意味があるし、自分で観察することも重要です。
ブッダの教えと真理の意味
ブッダの教えでは、覚えた真理の意味を観察し、理解して納得することが重要です。他の教えでは途中であきらめたり嫌になったりする可能性もあります。専門家の方々によると、「dhātānaṃ dhammānaṃ atthaṃ upaparikkhati」というフレーズは「dhātānaṃ dhammānaṃ 覚えた真理の意味を観察する 観察をすると理解する 納得する」と解釈されます。
努力と実験による真理の体験
ブッダの教えでは、納得した後も真理の人にはなれません。納得した人は努力し、実験を開始し、自分で真理を体験する必要があります。原文中の「dhammanijjhānaṃ」の一部を省略しましたが、実験や修行を通じて悟りの真理を自分自身で体験できると述べられています。
仏教の教えと現在の幸せ・平安
仏教の教えは「今ここ」で心の平安を獲得することを教えています。将来の幸せや約束は認められず、常識的な人間に幸せや平安をすぐに体験させることを目指しています。
尊敬と信頼のバランス
仏教では、絶対的な真理を語るわけではありませんが、常識的な範囲では人の言葉を信じることもあります。ただし、仏教は人を信じすぎないように注意を促しています。目上の人や尊敬すべきものを尊敬することや人を信頼することには否定的ではありません。
仏教の信仰と一般的な考え方
仏教の信者は、一般的な人々とあまり変わらない形で信仰を持っています。例えば、仏像やお寺のペンダントを身に着けることは一般的な考え方であり、信仰としてではなく、有難がって行われます。
信仰と常識的な行為
宗教的な行事やお祭りを行っている人々も、それを信仰しているわけではなく、あくまで常識的な行動として行っています。信仰はただの常識的な考え方であり、特別な意味合いを持っているわけではありません。
タイの信仰と常識的な宗教観
タイなどの国では、多くの人々が仏教のアクセサリーやお坊さんの写真を身に着けています。しかし、それはあくまで常識的な行動であり、宗教的な信念に基づくものではありません。