掌編小説(18)『根は腐らせぬよう』
深い深い森の奥。拓けた土地の中に、まばらに点在する人々の姿があった。人々は身じろぎもせず、朝日を一身に浴びている。遠目には、服を着た枯れ木のようにも見える。
老若男女問わず、実に様々な人種が地に根を張っている。木こり、農夫、羊飼い、はては司祭にいたるまで。およそ数百ほどの人間は、薄くあけた眼で空を見つめている。
憂いにまつろう人々は、その根が乾くまでここを去ることはできない。
何日かぶりに増えた人間を見て、守り人は静かにため息をついた。
新入りを見分けることはさして難しいことではない。おろおろとあたりを見渡し、林立する人々の間を縫って「もし」などと声をかけていればそれとわかる。
新たにやって来たのは年若い騎士だった。騎士見習いなど、弱輩が身につける軽装の甲冑をまとっているが、剣は携えておらず、兜も被っていない。どこかに打ち捨ててきたようだ。
守り人は騎士を呼び止め、話を聞いてやることにした。
「訓練から逃げ出して来たんだ。耐えきれなくなって——故郷に帰ろうとしたんだ」
今にも泣き出しそうな騎士は言葉をつないだ。
「うまくは言えないが、目に見えない何かがとても不安に思えてならないんだ。不安で不安で仕方がないのに、それがなぜだかわからない」
守り人は理解を示すようにこくりと頷いた。
「今はただ眠るといい。陽を浴び、水を吸い、心を無にして大地に身を委ねるのです」
騎士の足下に、地面から掘り返した土をかけてやる。ふくらはぎが隠れるくらいまで土を盛ると、シャベルの背で軽く叩いて形を整えた。
「ありがとう。しばらくここで過ごしてみるよ。今はそうするべきだと、誰かが心に囁くんだ」
守り人は再び頷くと、騎士の肩に手を置いた。
「きっと良くなりますから」
守り人が次に見つけたのは、膝を抱えて座り込む少女だった。
少女は眼前に林立する人々を眺めている。守り人は少し離れたところから声をかけた。少女は声の主に気がつくと、ゆったりと立ち上がり、守り人に歩み寄った。
「ここはどこ?」
少女はユウと名乗った。
「いつの間にか迷いこんでしまったようなの。家からそう離れていないはずなのに」
「そうでしたか。それはお気の毒に」
「それにこれはいったい何? どうしてみんな、黙って立ち尽くしているの?」
守り人はかぶりを振った。
「わかりません。私もたった今、やってきたところなのです」
守り人の嘘に気づくこともなく、少女は強張っていた表情を少し緩めた。
「そう。でもあなたに会えて良かった。この人たちに道をたずねても、誰も何も答えてはくれなくて。これからどうしようかと困っていたの」
「そうでしたか。それはお気の毒に」
「あなた、どこからやって来たの? 来た道を辿れば、家に帰れるかもしれない」
「ちょうどあの辺りから」
守り人は、森の境界線にぽっかりと開いた木立の隙間を指さした。
「半刻も歩けば、森を抜けることができるでしょう」
「あんな場所、たった今まで気がつかなかった」
「それより、気分はどうですか?」
「気分? 悪くはないわ。さっきまでは頭に霧がかかったようだっだけれど、徐々にそれも晴れてきたみたい」
「それは良かった」
「ありがとう。じゃあ、もう行くわ。そうするべきだと、誰かが心に囁くの」
「そうですか。それではお気をつけて」
駆け出す少女。森の中に吸い込まれていく背中に向かって、守り人は静かに頭を垂れた。
守り人は最後に、広場の中心部に向かった。
「具合はいかがですか?」
守り人が声をかけると、青年はため息をついた。
「悪くはないが、良くもない。だから、あんたの申し出を受けることにするよ」
「そうですか。では、私はようやく休めます」
守り人の体が透き通るように消えていく。残されたシャベルは地面をうって、別れを告げるようにガランと鳴いた。
憂いの森の新たな守り人はシャベルをそっと拾い上げると、あたりを静かに見渡し、しばらくの間、未だこの地に囚われる人々の表情を見つめていた。
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このお話は、5月20日の『森林の日』にちなんで、『森』をモチーフにして書きました。