映画『シビル・ウォー アメリカ最後の日』ー地獄と花をフィルムに刻むことー
私はこの映画を「写真の意味」についての映画だと感じているので、そこについてだけ書く。細かな分析・考察しません。主観です。(分断・反戦・差別主義などの主題については、他の人に任せます)なおネタバレします。
ダンスト演じるリーは、スーパー戦場カメラマン。ただし。過去の華やかな受賞歴・経験値・刻んできたフィルムは、すべてリーの地獄となり、脳内で再生されている。もはや何を撮ろうが、何を受賞しようが、もう地獄は撮り続けたくない。
ただ身体と心は分離している。心は悲鳴をあげているのに、身体は「写真を撮り続けろ」と勝手に動いている。もういいです、と思ってるのに。美しい写真、私は最後にいつ撮ったんだろう。
そんな中で、スピーニー演じるジェシーに出会う。あれは、昔の私ですか?私だよ。
写真に希望を持って、内から湧き上がる熱意だけがあなたを突き動かしてる。写真の可能性や美しさを、まだ信じてる。世界を救えると信じてる。あなたの目のきらめきが眩しすぎる。
DCへ向かう一連のシークエンスは束の間の幸福なロードムービー。ジェシーは、「人」を撮る。車内の一人一人をただ撮る。サイドミラーに映ったあなたを。フロントミラーに映ったあなたを。隣に座っているあなたを。
そして何より!リーに服を着せて、その笑顔を撮るシーン。リーは「やめてよ〜」と言いながら、それでも嬉しそうにして。撮られている。本来カメラはそういうものでいいはずだった。歓びを刻めよ、フィルムに。
それでも、なぜ地獄を撮らないといけないのか。リーはジェシーが自分のように写真に魅了され、絶望するところまで、きっと全て見えている。「私」の再生産という苦しさ。でも、バトンを渡さないといけない。誰かが地獄を撮らなければ、誰にも地獄は見えなくなってしまうから。
リーは、昔きっと花を撮っていた。ただ綺麗な花を見つけても、もはやシャッターを切ることができない。もう身体が動かないよ。
だから見つめる。リーは心の中でシャッターを切る。「私の心のカメラに残すから」とアフターサンの子が言っていたように。
(この映画、完全に写真的な視点で構成された美しいカットが、唐突に差し込まれて心が揺れる。)
そしてリーの師匠であるサミーが死んだとき。その死んだ姿を一度撮って、削除する行為は、あまりにも象徴的な場面だ。
戦場カメラマンとして「サミーが戦場で死んだ」という事実を残すために、シャッターを切る。身体が勝手に動くから。
でもリーの心は、大切な人が死んだ写真を、カメラに残しておくことはもうできない。一体どこの誰が、大切な人が戦場で死んだ姿を、自分のカメラに残したいんだろうか。デリート。削除。消し去った。私の心のカメラに残すから。勝手に残ってしまうから。
人間はずっと間違え続ける。叫び声は聞こえない。誰が敵かも分からない。それも忘れ続ける。私もきっとそうだ。
だから撮る。間違えを、叫び声を、誰が敵なのかを、残すために。リーが青い花を撮っててほしい。その世界の方が絶対に正しいから。地獄を断ち切れ。やれることを、やるしかない。