木下佳通代と、私の周りの大切な人達が私という存在を素直に証明していた日
昨日は美術とグルメ、そしてお酒を満喫した1日🍾🍛🍶🖼️
佳き日。非常に哲学的な芸術性に感化された。
木下佳通代というアーティスト、1人の女性を好きになり、私の周りの人達と、何より私をさらに好きになれた1日だった。
誘ってくれた先輩…いや最早友人か、そんな距離で接してくれる清水愛氏に感謝!観るペースも全然意識してないのにすごく波長があって、心地よく観覧できた。
木下佳通代(きのしたかずよ)の没後30年個展。
こんな展示があるよということを愛さんに教えてもらって初めて知り、興味を持って観にきた。
知識ゼロだったけど、中之島美術館のみならず、国内美術館では初で過去最大規模の展示だったという。(そしてありがたいことに、写真撮影可の展示だった)
自身に関わる物事や意識、人、依存するそれら全てを差し引いた時に生まれ出る芸術は、自分自体が誰かにピュアに投影され、初めて私という存在そのものになるのだと。
彼女の手記には「如何なる皮膜も持たない意識は、未知に向かう真の入り口でもある」と書かれていた。
そぎ落とし、差し引かれて最後に残されたのは線の表現。
絵画に回帰後、丁度800枚目となるこの作品を描いている途中で乳癌によりこの世から一線を退いたのだそう。
私が生まれてから4年後、1939年〜94年迄の55年という、短いながらも強く己をやり抜く姿勢を隈なく観ることができた。美術に詳しくないもののこの時代に日本でこんな前衛的な作品が?とも思ったが、「私」を本気でやり抜き出てきた物事に時代の云々というのは、もう関係がないのかもしれない。
そして驚くほどシンプルなことに幾度も熱を持って向き合い実験していく姿勢にこそ、本当の意で新しい発見はあるように感じた。
これはあくまでも私の主観だけど、未完であるはずの最期の作品が何故だろう…僅か数本に託された線の力のようなものが私の心に素直に響き、これだけで終わったことが完全であるように思えて仕方なかった。It’s perfectly imperfect, but she’s all done with it.
抽象的でスティルなのに、生々しい。観ている間、彼女が私の中でまるごと生きていた、そんな展示だった。
私は素直に「私」を表現することが、歌や歌詞でも日常でもできているだろうか— そう自らの境地に立って物事に挑むのが表現なのだと、心に一筋深く、大きく刻まれました。
終わってからは私の飲みたい気持ちにひた付き合ってくれたり、連絡一つでぽんと駆けつけてくれたりする、大好きな人たちと飲む時間。
近くに流れて、海鮮居酒屋で舌鼓を打つ…!
何も考えずふと出る言葉や注文一つひとつ…そんな所にも仲良くさせてもらえているのが嬉しく感じられるカケラが転がっていた。
みんな仕事、そして自分に向き合い前駆していくことに一生懸命全力で素直な者ばかり。そして様々に活躍している。ここ2、3年で会ったのに、私にとってはもう掛け替えない財産だなぁと思える。
そんな人達や物事と会う機会が増えているのは、多かれ少なかれ私自身が少しずつそうなれているからに違いない。
如何なる皮膜も持たない私で過ごせている感覚を無限に広げて私を証明してくれている、その存在を大切にしたい。
この展示は8/18迄ということで今日までだったそう。その後は展示物は変わるようだが、埼玉県立近代美術館に巡回するという。
【巡回情報】
埼玉県立近代美術館
2024年10月12日(土)– 2025年1月13日(月・祝)
気になる方は是非行ってみてほしい。