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ダイアナ-ウィン-ジョーンズ論⑤
【ジョーンズは「ファンタジーを」書くことにとても自覚的な作家である、という話し。】
現実 ~ NOW HERE ~ 後編
2.成長すること
さてここからは「主人公の成長」の側面を新たな取りかかりとして、<現実>についてもう少し詳しく考えてみようと思う。
何のための<魔法>?
親戚の家で蔑まされながら暮らしているハリー・ポッターは、魔法界の試練に挑み毎巻少しずつ大人になる。『トムは真夜中の庭で』のトムは、過去の庭がきっかけで大家のおばあさんと仲良くなる。
一般的に、ファンタジーの物語中で主人公を成長、変化させようとした時にみられる方法は「<魔法が存在する状況での出来事>によって<現実や内面の問題に現実とは異なる方法で向き合う>きっかけを与える」ものだ。
同じ様に『九年目の魔法』にも「魔法世界の住人とも言えるトーマス・リンとの関係を介して、ポーリィが<現実>の両親との関係を見つめ直す」図式が見られる。
この図式は一読しただけではわかりにくいが、「ポーリィの両親の行動」と「ポーリィにリンさんとの間で求められていた行動」に的を絞ってみると、そのつながりが浮かび上がってくるように思う。
伝承に流されず自ら責任を持って行動したこと。これは周囲に流される無責任な父親への態度へとつながる。
結末でリンさんを手放すポーリィの行動。これは強い嫉妬心や独占欲を持った母親に対する態度へとつながる。
こうした、両親とは相反する態度は、魔法の力を借りてポーリィ自身が自らの立ち位置を決めたものだったといえるのではないだろうか。
このような成長の方法を見ると、先に挙げた二つの作品と『九年目の魔法』は “成長のための魔法”という似通った考え方を持っていることがわかる。しかし『九年目の魔法』と最初の二つの作品には、一つ大きな違いがある。それは物語の中の<現実>の重たさである。
現実のための<魔法>
前の章で、「冒険と遊びを保証する」ための親の不在、とか「ステキなファンタジー世界をお膳立てするための過酷な家庭環境」という言葉を挙げた。
先の二作品は<現実とは異なる方法>や<魔法が存在する状況での出来事>に重きが置かれている一方で、ジョーンズの作品からは「物語の中での大人を、もはや手本とすべき存在とはせず、さらに<現実>から抹消しようという気もないことが感じられる」と述べた。
どうも『九年目の魔法』の重点は、生身の姿を持った両親も含め、<現実や内面の問題>の方に置かれているようである。
大人が個人として扱われ、家族の問題を核として書かれた児童文学は、今やリアリズム作品では少なくない。「両親の離婚」というテーマは王道とも言えるものだし、そこでは子ども達の内面にまでつっこんだ作品も多く見うけられる。
リアリズムの児童文学では1960年代後半から<自分とは誰か>だとか<成長>というテーマも扱われるようになった。現実の世界で子どもにとって大きな影響力を持つものの一つは親であり家族である。これらの作品が家族を一つのテーマとしたのは当然のこととも言えるだろう。
一方同時期それと連動して、ファンタジー文学にもテーマとしての<自分探し>や<成長>が見られるようになった。その代表的なものが『ゲド戦記』(The Earthsea Cycle)などに代表される<自分探しを兼ねた、魔法世界での冒険の旅>をテーマとした形態だ。それはリアリズム作品とは些か異なる形態であるが、今でもその形が多くの作品に受け継がれている。
しかしジョーンズ作品の多くは、こういった<自分探しを兼ねた、魔法世界での冒険の旅>の形をもっていないように思う。特に『九年目の魔法』で起こる出来事や描写の多くは、魔法という要素がなくとも十分に成り立つと感じられるものであり、その家族や友人との関係の描かれ方はリアリズム作品に近いといえるだろう。
例えば私の知り合いにこんなことを言う人がいた
「一読したところ、この話は全てポーリィの妄想なのではないかと思った。物語の終盤でやっと、ほんとうに魔法の出てくるファンタジー小説だと信じられた」
ジョーンズ、イコール、ファンタジー作家、との認識を持たない人物にそう思わせてしまうほどに、この作品はファンタジーでありながらリアリズム児童文学でもあるのだ。
確かに、ファンタジーであるからには想像的な魔法に重きをおくのは悪いことではない。しかし、実際に内面や現実的な問題を解決するには、想像の世界だけで対応していたのではならないのも事実だろう。
『九年目の魔法』の十歳のポーリィには両親があり、その夫婦崩壊と、親から避忌される子どもの状況が、物語を通し描かれている。
ここには理不尽な大人に向き合う主人公が常に描かれているのだ。
「あたし思うんだけど、トムみたいな人が知り合いにいない人は、みんなどうしてるんだろう?」
「神のみぞ知る、だよ」とても真面目な口調だった。後はふたりとも黙ってその通りを歩き続けた。
本物の現実世界の厳しいことは、現実世界だけで解決しなくてはならず、うまく助けてくれるようなファンタジックな出来事なんて起こりはしない。厳しい現実に生きるポーリィにとって、リンさんの存在はファンタジーである。けれど、『自覚的に』挿入されたファンタジーなのである
2005、21頁
ジョーンズは、ファンタジーはあくまでファンタジーであり、結局はただの想像に過ぎないことを知っている。現実の重みを知っていながらポーリィにファンタジーという助け舟を出しているのだ。
そして「願い事ばかりで人生を無駄にしてはいけない」とポーリィたちに忠告しながらも、唯一の弱点として迷信(これはファンタジーの一種だと私は考えるが)を信じすぎる性質をもったお祖母ちゃんの存在もまた、ファンタジーだけに頼る危うさを表しているのではないだろうか。
3.現実の重さ
ジョーンズの他の作品でも、ここまで<現実>が重く扱われているかと言えば、そうは言い切れないのも事実だが、『九年目の魔法』で扱われている<現実>は、ユーモアに包まれながらも本当に重たい。ここでは無理やりに親を立派に見せることもないし、ましてや物語から見えないところにおくこともない。しかしそれをあるがままに見ることで、ポーリィは<現実>と向き合い尊重することができる。そしてここで使われる<魔法>は<現実>に、よりはっきりと向き合う手助けをするだけなのだ。
トーマス・リンに「感傷的な戯言(322頁)」と評された、<非現実的>な描写のポーリィの物語。リンさんの素っ気ない返事に一度は激しく憤慨したポーリィだが、<非現実的>なものの見かたをする母に向き合った時にこう気が付く。
そういう見かたは、英雄稼業においても非現実的なのだ
『九年目の魔法』における“英雄稼業”や“英雄”といった概念は、<現実>に対する“ファンタジー”を表しているものと私は考える。
英雄稼業に関する考え方、親子の関係、お祖母ちゃんの性格。
これら全ては、ジョーンズの「ファンタジーといえども想像だけに頼って<現実>をないがしろにしてはならない」というスタンスを伝えているものなのではないだろうか。
【次から第3章!
前二つの章で考えた魔法世界と現実世界。
この二つの関係性をジョーンズはどう描いているのかについて考えます】