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ダイアナ-ウィン-ジョーンズ論④
【この章は『魔女と暮らせば』の重大なネタバレを含んでいます】
Ⅱ.現実 ~NOW HERE~
前回の章では、『九年目の魔法』と<伝承>との関わりについて考えた。
その作品がファンタジーと呼ばれる所以は<魔法>やそれに類する存在にあり、<伝承>とは言わば<魔法>の元となる部分とも言える。
しかし『九年目の魔法』には<魔法>の存在が濃厚に感じられる一方で、それと対になる<現実>にも非常に大きな役割が与えられている。
作品の半分近くを占めるポーリィの家族内や学校における生活描写は、まさに<現実>の出来事そのものである。
そこでこの章では、ポーリィの家庭生活や両親との関係を手がかりに『九年目の魔法』における <現実>の扱われ方を見ていこうと思う。
1.家族像にみる現実との関わり
エブリデイマジックという、現実との関わり方
現実的な生活というのは、現在多くの人達が慣れ親しんでいるファンタジーらしいファンタジー世界、いわゆるロールプレイングゲームやおとぎ話のような魔法の存在する世界からは一見かけ離れたもののように見える。しかし元を辿れば、イギリス伝承の多くを占めるフェアリーテイルは人々の現実の“生活”に魔法が入り込んで出来ているものだ。<現実>と<魔法>の両者が現れる作品は20世紀初頭から既に見られるし、また現在に至るファンタジー文学中にも多く見ることができる。
<現実>と<魔法>の両者を扱った代表的な作品として、例えば児童ファンタジーの初期作品のひとつ、1902年の『砂の妖精』(Five Children and It)が挙げられる。
A・ルーリーはこの作者であるE・ネズビッドを
想像力による現実の転倒を成し遂げた作家である
と評価し、川端有子は彼女の作品を
ファンタジーでありつつ、リアリズム、冒険小説でありつつ、家庭小説
でもある新たなジャンルの先駆け、としている。『砂の妖精』はトーマス・リンがポーリィに贈った本の中の一冊でもあるのだが、この「ファンタジーでありつつ、リアリズム、冒険小説でありつつ、家庭小説」という言葉は『九年目の魔法』にもそのままそっくりあてははまる。
『九年目の魔法』の考察に入る前に、まずはこの『砂の妖精』を含む1950年代以前のファンタジーにおける家族像について考えてみよう。
古典における家族像
ネズビッドが当時における「新たなジャンルの先駆け」であっても、そこはやはり1902年の作品、「古さと新しさのふたつの面」を持っている。その古さの要素の一つとして川端が挙げているのが「理想の家庭像が見え隠れする」ことだ。この作品では魔法による「大人不在の冒険と遊び」を保証するために、親は物語の外へと追いやられている。
にも関わらず、「しっかり者の母役アンシア、リーダー役の男らしいシリル、無邪気なジェイン、腕白小僧のロバート」という主人公の兄弟姉妹像には「理想的な家族像」が反映されているというのだ。
また、少なくともこれより後、1950年代頃までのファンタジー児童文学では、その多くの主人公が理想的な家族像を持った子どもである。
『ピーターパンとウェンディ』(Peter and Wendy, 1911)、『メアリーポピンズ』(Mary Poppins, 1934~)、『トムは真夜中の庭で』(Tom’s Midnight Garden, 1958)……。こういった作品の家族像を通して言えるのは、そこに優しい両親や賢明な両親が共に揃っており、子どもたちはそれなりに円満な家庭に育っているということだ。
さらにもう一点これら主人公と両親の関わりを通して言えることがある。それは、<現実>世界の両親から離れた時、目の届かない時に、彼らがファンタジー世界に迷い込むパターンが見られることだ。
『砂の妖精』が出版された20世紀前半。この頃の児童文学の大きな役割のひとつは、そこに子どもへの教育的な側面を持たせることだった。それゆえそこに登場する大人は、子どもを教育すべき手本となる存在でなければならなかったものと考えられる。言ってみればそれは、物語の語り手に近い存在だったのだろう。そして普通語り手は、読み手の想像を遮らないため、物語の中で目立ちすぎたり物語の筋を変えたりしてはいけない。
語り手に近い大人は、立派な存在でなければならないと共に、「冒険と遊びを保証する」には邪魔なものだった。だから、ファンタジー児童文学で見られる親たちは、社会的に、もしくは心理的に理想の存在であり、物語と切り離せるような個性が無いものであることが常だったと考えられる。
現代ファンタジーにおける家族像
では最近のファンタジー作品に表れる主人公と親との関わりはどうなのだろう。「九年目の魔法」について考えるのはもう暫くおあずけとして、次はもう少し最近の作品について見てみよう。
最近の作品であっても、やはり両親がともに揃った理想的な家族を持つ作品は存在している。その一方で『ハリー・ポッター』、『リンの谷のローワン』(Rowan of Rin)、『ライラの冒険』(His Dark Materials)、『崖の国物語』(The Edge Chronicles)といったファンタジー作品で見られる家族といえば、“ほぼ物語冒頭から片親や両親がいない”ものでほとんどが占められている。時にそこには“義理の親に預けられているが冒頭でそこから離れる”、“義理の親に預けられているが実は虐げられている”といった要素が加わることもある。
これはまた『砂の妖精』などとも異なるタイプの家族像に見えるが、こういった「なくなった親たち」は一体作品にどういった効果をもたらすのだろうか。
まず、わざと相容れない義理の親を描くこと。これは主人公がそこから離れることで、読者が主人公と一緒に開放感を得る効果を与えているといえる。
そして親の存在を<なくす>こと。このような「なくなった親たち」の多くは、少々の欠点はあれども基本的に立派な人物であったことが常である。ということは、ここには先程のように理想的な家庭を持った主人公が親から切り離されたときと同じく、「読み手の想像を遮らない」で「手本とすべき親を示す」効果が含まれていると考えられる。
ここでも親とは「冒険と遊び」には邪魔な存在なのだ。辛辣に言ってしまえばそこに表されるのは
ステキなファンタジー世界をお膳立てするための過酷な家庭環境
2005、21頁
でしかないのである。
実は、理想的な家族像を持つ主人公がそこからはなれて冒険する場合と、こういった生い立ちの主人公が冒険する時の違いは、「物語中の主人公の成長において、乗り越えるべき試練や課題の一つとして“親の不在”なる項目があるか否か」ということくらいなのではないだろうか。
ジョーンズ作品の家族像
ここまで来ると、これらの両親や家庭像の扱いは『九年目の魔法』とは大きく異なっていることが感じられるだろう。
主人公のポーリィは一人っ子で、両親は離婚している。中心とされるポーリィの家庭は理想とはかけ離れている。物語の核をなす回想部分は、両親が離婚に至り、父と母の勝手でその間を行ったり来たりさせられ、ついには祖母のところに行かざるを得なくなったポーリィの、その生活を中心に話が進められる。
そこに描かれる親は、それはそれは、読んでいるこちらが可哀想になる程にひどい親たちだ。しかしそれにも関わらず、このアイビーとレジという父母は、いかにも<現実>に存在しそうな人物であることもまた事実である。
近年イギリスの離婚率は非常に高まっているが、この作品は<現実>を汲み取り、大人のことを<現実>に存在する生身に近い姿として反映させていると言える。
またこちらは「親」ではないが、同じくジョーンズ作の『魔女と暮らせば』にも、とても理想的とは言えない「姉」が登場する。『砂の妖精』のアンシアがしっかり者の母役であったのに対し、彼女は自分勝手で、そ知らぬ顔をして弟を散々利用し、その末に命まで狙っている。
『九年目の魔法』をはじめ、ジョーンズの書く両親像を見ていると、彼女は物語の中での大人を、もはや手本とすべき存在とはせず、さらにお膳立てのために<現実>から抹消してしまおうという気もないことが感じられる。
結末での親・大人との関わり
では、こういった両親たちと主人公の関係にジョーンズは、物語の結末でどう決着をつけるのだろうか。これを考察することで、ジョーンズの作品が他のファンタジーとは一味違う理由がもう一点見えてくる。
『九年目の魔法』の訳者である浅羽莢子は、同じイギリスの、ほぼ同時代の作家であるマーガレット・マーヒーをジョーンズと似たタイプの作家だと訳者あとがきで述べている。このマーヒーは思春期の少年少女の内面や家族についても扱う、やはりファンタジー作品をメインとした作家である。しかしその彼女の作品でも、主人公は結末には家族と理解しあい、そこに笑顔が戻ることが普通だ。
また例えば、“戦争(これは現実の最も暗い部分のひとつであると思う)”と“子どもたち”に関する作品を多く生み出しているロバート・ウェストールに、『かかし』(The Scarecrows)という作品がある。これは戦争を扱ったものではないのだが、まさに主人公の家族関係をメインとした作品である。物語は、再婚をした母親とその再婚相手を忌み嫌っていた主人公の関係を中心として進み、ここでも結末で新たな両親と近づきあう主人公が見られる。
このように“家庭の中に問題がある”要素を持った作品の場合、児童文学の多くは結末に親と和解するか、または理解し認め合うことが普通だ。
[注3]
しかし『九年目の魔法』は少し異なっている。以下は物語中で、ポーリィとアイビーの会話が交わされる最後の部分だ。この場面のポーリィは十九歳である。
近頃では母子共に、お互いのことがかなり好きになっている。人生はアイビーに優しくはしてくれなかったのだ。……(ポーリィはアイビーに)軽く親切な口調を心がけたのだが大変な努力が必要になり、茶碗を持つ手が震えた。……そういうこと言うから、誰も同情できなくなるのよ
ここからは、子どもであるポーリィのことを取り合ったり押し付けあったりした母親と、結局本当の意味で仲良くすることができないポーリィの姿がうかがえる。児童文学であるのに結末でも認め合うことができない親子。とても珍しいと思う。しかしほんとうのところ、親子関係はそんなにドライなものじゃないなどと誰に言えるだろうか。
一方で、この場面からはもう一つ汲み取れる親子関係がある。それはポーリィが、それ程までに自分を酷く扱ってきた両親のことを、嫌っているわけでもまた無い、ということだ。
物語中で、母親を見直す劇的な出来事が起こったわけではない。にも関わらず、彼女はアイビーときちんと親子として付き合うおうと努力することができるのだ。
この様な発想は、先程挙げた『魔女と暮らせば』の中でも見ることができる。
主人公のキャットと、姉であるグウェンドリンは最初、勝気な姉とその姉に付き従う弟という仲の良い関係である。しかし結末でキャットは、姉が自分が生まれてからずっと、彼の強力な魔力と九つの命を勝手に利用し、世界制服を企んでいた事を知る。キャットはそのことが分かってもなお、姉が別の世界へ逃げる手助けをし、「お姉ちゃんにまた会いたいかどうか、もう自分でもわからなかった」と感じている。ここでもまた弟は、自分に酷い扱いをしていた姉を特に嫌いになったり軽蔑したりするわけではないようだ。
こういった場面を見ていると、ジョーンズにとっては親子や兄弟であってもそれは一個人であり、そう簡単に理解しあえる存在ではないと感じていることがわかる。
<現実>の親には一人の人間として良いところも悪いところもある。むしろ悪いところの方が大きいかもしれない。だから親子や家族、恋人間でも安易な共感を求めない。自分は自分であれば良く、お互いを尊重できれば良い。
この考え方は、ポーリィがトーマス・リンを手放しで愛そうとした結末にも共通するものだ。“所詮人の全てを理解することなど不可能だが、それでも自分と違う<個>として他人を尊重し認めることはできる”これもジョーンズの作品に見られる特異な性質だと言えよう。
そしてこの考え方があるからこそ、彼女は作品の中で無理やりに親を立派に見せることもないし、ましてや物語から見えないところにおくこともない。そのために綺麗ごとばかりではない<現実>とも向き合うことができるのだと言えよう。
注3
神宮輝夫は「児童文学の再生」の中で、1970年代以降の作品での「家族の再生」について述べている。(『英語青年』)
【次の項目は「主人公の成長」について!】