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ダイアナ-ウィン-ジョーンズ論③

【前回は詩人トーマスとタム・リンの話をしたけれど、九年目の魔法には他にも色々な伝承が織り込まれているらしい
(こちらの内容には吟遊詩人トーマス、クラバート、ふくろう模様の皿のネタバレがふんわり含まれます)】

Ⅰ.伝承 ~NOWHERE~ 後編 

2.『九年目の魔法』とその他の伝承
先の二つの伝承には、ともに七年という年数が登場する。ところが『九年目の魔法』で重要となるのは九年という年数だ。
この数字が使われた理由の一つとして、北欧神話の多くで<九>という数字が神聖な扱いを受けているから、と考えることもできる。
しかしそれと同時に

古代スウェーデンの王は九年間だけ統治し、それが過ぎると殺されるか、あるいは代わりに死ぬものを見つけ出さなければならなかった

G.フレイザー『金枝篇:呪術と宗教の研究』第4巻
国書刊行会、2006、51頁

というスカンディナビアの伝説に残る、実際の儀式の暗示を元にしているものとも考えられる。
この話はフレイザーによって収集された『金枝篇』の「一定期間の終わりに殺される王」の項目の中に見られるもので、ハロウィンのハンズドン館で、「九年ごとに男性のお葬式が行われること」に酷似している。
そしてこの『金枝篇』はトーマス・リンがポーリィに送った本のうちの一冊でもある。

さらにこの『九年目の魔法』の中には他にも神話や伝承を思わせるモチーフが使われている。
作り出された<どこでもないところの物語>でポーリィが名乗る名前はギリシャ神話のHero and Leanderのヒロインである<Hero>である。
トーマス・リンが名乗るタン・クールはアイルランドの伝説の、巨人を倒した英雄<フィン・マックール>から来ていることや、ポーリィの恋人でありローレルの息子であるセブの名が<聖セバスティアン>からきていることは作者自身が述べていることだ。

3.現実と伝承を織り交ぜること

ここまでで分かるように「九年目の魔法」の土台は、幾つもの伝承が組み合わさり、絡み合ってできている。
『英雄伝』、『妖精譚』、『オックスフォード版バラッド集』、『金枝篇』……
こういった伝承の多くは、トーマス・リンがポーリィへ贈ったものを中心として、作品中に登場する数々の本に関連している。
またこれらの要素は作中で、現代にあわせて形を変えて登場したりもする。

O first let pass the black, lady
Then let pass the brown,
But quickly run to the milk white steed
Pull you his rider down.       

Thomas Rhymer (321頁)

妖精の国と人間の国を行き来するのに欠かせないものだった「馬」は「車」に置き換えられ、マイルズクロスの丘で三頭目の馬から引きずりおろされるはずだったトーマスは、マイルズクロスの「駅」にやって来た三台目の「車」を降りたところでポーリィに捕まえられる。ハンズドン館は一見して只の大きな邸であり、ローレルも息子の学校のクリスマスコンサートに来るような(美人ではあるが)普通の人間に見える。
たとえ妖精であろうと、現代に生きていこうとすれば変わらざるを得ない、と作者は皮肉っぽく表しているようにも思える。

一般的な物語では「悪」とされてしまうような役回りにあるローレルは、『指輪物語』(The Lord of the Rings)におけるサウロンや、『ナルニア国物語』(The Chronicles of Narnia)の白い魔女、『ハリー・ポッター』のヴォルデモードのように、自身を悪だと意識しているわけではない。
ただもとからあった自分自身のあり方を貫き通しているように見える。
それは上の三者のような「絶対悪」でもなく、恐ろしいながらも人間性のある「悪人」でもない。彼女は関係をもった人間にとっては恐ろしい存在だが、ただ自然の力そのものであるようにも感じられる。
現代的にされていながらも、こういった点では、例えばアーサー王の緑の騎士のように、より伝承に近い雰囲気を持った使われ方をしていると言えよう。[注1]

脇明子は、伝承の魅力の本質は物語に「語られていない部分」にあり

重なりながらも矛盾するさまざまな伝承があって、どれが本当の話かを決められないということが、伝承の輪郭を見定めがたい陽炎のようなもので包み、それが独特のオーラになっている

脇朋子、『魔法ファンタジーの世界』
岩波書店、2006、106頁

と述べている。『九年目の魔法』でも、幾つもの伝承が重なり合い時には矛盾し、各々テキストの中では十分な説明がされていない部分がある。それゆえこの作品は、やはり現代的でありながら伝承の魅力をも合わせ持っているといえる。

『九年目の魔法』という作品で魔法らしい魔法が登場するのはテキストの半分以上を越えたところである。そしてそれまでの大半は、ポーリィの家族や友人を中心とした非常に現実的とも思えるテーマを扱っている。
にもかかわらずこの作品が濃厚な魔法の雰囲気とファンタジーらしさを兼ね備えているのは、こういった伝承の存在に負うところが大きいのかもしれない。

[注1]脇朋子はこの緑の騎士を「自然の力そのものによる試練」としての悪、と位置づけている。(『魔法ファンタジーの世界』「善と悪の戦い」)

4.伝承からの逸脱
さて、ではこうして現代的でありながら伝承の力を兼ね備えた『九年目の魔法』の、一体どこが、それまでのファンタジー文学や児童文学の形を破っていると言えるのだろうか。この答えの一つとしてはもちろん今まで述べてきたように、一つの伝承だけではなく複数の伝承を絡み合わせていることも挙げられよう。

しかしここでは、それ以外、ジョーンズがこれらの伝承に物語を沿わせながら、最後にはそこを離れることに焦点をあててみたい。

ポーリィはジャネットのようにトーマス・リンを救うべく立ち上がり、マイルズクロスで馬の代わりに車に乗ってきた彼を捕まえる。そしてたどり着いたハンズドン館でローレルやその夫(女王に対しての王)であるモートン・リーロイと一戦交えることとなる。
タム・リンがただジャネットに引きずりおろされたのに対し、トーマス・リンはモートン・リーロイと相対峙する。そしてポーリィは、ジャネットがしたように彼を手放さないでいる代わりに、全く逆の行為、彼を【手放す】ことでローレルのルールに打ち勝つ。

例えば同じ“Thomas Rhymer”の伝承を扱っている大人向け文学であるエレン・カュナーの『吟遊詩人トーマス』(Thomas the Rhymer)は、その伝承をそのまま物語化しているものである。
時代設定もバラッドに近く、トーマスもバラッド通りに女王にさらわれ、七年の後に力を与えられてこちらに戻り、最期には女王に連れ去られる。その筋は最後まで伝承からずらされることがない。
また、1971のドイツの児童文学であるプロイスラーの『クラバート』(Krabat)は、ドイツのクラバート伝説を扱っている。しかしこちらでも、結末で主人公を救う者が母親から少女に代えられてはいるものの、やはり大きな違いは無い。そしてこの『クラバート』における変更は、この作品が再話ではなく、あくまで創作児童文学であることを考えれば、作品にロマンスを持ち込むという点で自然な流れと言える範囲のものだ。

谷本誠剛は、伝承をもとにしながらもその結末が大きく変えられている作品として、アラン・ガーナーの『ふくろう模様の皿』(The Owl Service)とジョーンズの『九年目の魔法』を挙げている。[注2] 

『ふくろう模様の皿』はウェールズの神話である「マビノーギオン」の中の「マース」という悲劇を題材とし、現代で繰り返される神話に巻き込まれた少年と少女が、その魔法の力に立ち向かう物語である。
元となった神話の結末が悲劇で終わるのに対し、ガーナーは作品の結末をハッピーエンドで締めくくる。谷本は『ふくろう模様の皿』を中心に論を展開し、神話をもとに始まった話が最後でそこから離れるのは目覚しいことであり、それは現代ファンタジーの一方向を表す、と述べる。
たしかに両者は現代ファンタジーの一方向として、同じ要素を持っているかも知れない。しかし『九年目の魔法』が伝承から離れるのは、この作品が神話から離れることとは些か異なる理由を持つように思える。なぜならば、『ふくろう模様の皿』の中にある神話が悲劇の神話であったがために「作品が児童文学らしく調和的に終わるためには、当然その神話の呪縛は断ち切らねばなら」なかったのと違い、『九年目の魔法』が基盤として主に利用しているのは(いくらトーマス・リンが詩人トーマスに似ていようと)ハッピーエンドで終わるタム・リンの方なのだ。
変える必要のない結末をわざわざ変えた『九年目の魔法』に対して、ガーナーがこの結末を選んだことは、『クラバート』でプロイスラーが結末を代えたのと同様に、自然なことだと言っても良いだろう。

そこで谷本は、こういったジョーンズの伝承乖離の姿勢は、「物語中に伝承をとりこみ、それをずらすこと自体を楽しんでいるもの」だとしている。確かにそうかもしれない。なぜならジョーンズは作品中にいつでも遊びを求め、どうすれば物語を上手くずらすことができるか、それ自体を楽しみ、意識して書いているように思えるからだ。しかし理由はそれだけなのだろうか。
この結末によってジョーンズは「自ら考えること」を奨励しているようにも思える。

タム・リンのジャネットはとても勝気な乙女であったが、その行動は結局タム・リンに教わったものを再現したに過ぎず、タム・リン自身も助け出されるのを待つばかりであった。
しかし『九年目の魔法』のポーリィは、自ら頭を働かせ、伝承通りでは上手く行かないと気が付くと、解決する方法が元とは逆の行為であっても、かまわずに行う。
更にポーリィがトーマス・リンを救おうと決心した本当の理由は、自分のお腹に子どもがいるからという受動的なものでもなく、トーマス・リンを愛しているからという盲目的なものでもなく

確実に起きる殺人を防ぐ方法が、本当にこれしかわからないから

「九年目の魔法」444頁

である。
そしてトーマス・リンがポーリィの助けを使ってローレルから逃れることを諦めたのは、タム・リンがジャネットを利用したように自分が彼女を利用することに、罪の意識を感じたからだ。
結局はポーリィの助けを借りながらではあるが、自力でどうにか逃れられないものか奮闘しようとしたのである。
トーマス・リンがポーリィの書く物語を『指輪物語』の真似ではダメだと諭したように、そして、ポーリィが「伝承に頼らず自ら考えた」ように、物語も「伝承ばかりに頼らず自ら考えて作り出す」こと。伝承は物語の筋を複雑にしても方向を誤らないための道しるべであるが、それと同時にジョーンズにとっては、そのまま使わないこと自体に意義があるのだろう。
ここからは、既存のものに従うだけではならないというジョーンズの姿勢が垣間見えるのである。

(注2『英語青年』、研究社、1997.4月号より)


【まだまだ序盤!
 第II章は現実編 ーNOW HEREー!】

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