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博士課程まで進むということーー東大出身の理学博士が素朴で難しい問いを物理の言葉で語るエッセイ「ミクロコスモスより」⑫

生徒:博士課程まで進むか、迷っているんです……

先生:まあ、修士で辞めていく人が多いですからね。

生徒:しかも、修士で論文を出しているような優秀な人に限って辞めていきますよね。

先生:その傾向は強いですね。おそらくそういう人は将来計画がしっかりしているので、より自分の力を発揮できる方向に進んでいくのでしょう。そういうタイプの人は博士課程に進んだとしてもしっかりやっていけることが多いですね。

生徒:僕はまだ論文も書けていないですし、将来について考えているわけでもないので……

先生:そういう人もたくさんいますよね。

生徒:でもそれで本当にやっていけるか、不安なんですよ。

先生:それは誰にも分からないですね。何とかなってしまう人もいれば、にっちもさっちも行かなくなってしまう人もいる。それは、本人の力量だけではなくて、運とか環境とかにも依存するので、本当に何とも言えないですね。

生徒:にっちもさっちも行かなくなってしまうケースは、実際にはどうなってしまうんでしょうか?

先生:まあ要するに、博士論文が完成しないというわけですが、書くテーマはある程度見込みがあるけれど精神的プレッシャーに押し潰されてしまう場合と、書くテーマがそもそもまずい場合と、色々じゃないでしょうかね。

生徒:テーマがそもそもまずいって、それは予め分かるものではないんですか?

先生:あまりにも当然のことであれば予想は付きますが、そもそも答えが分からないことを研究するわけで、当初の仮説が間違っている可能性だってあるわけですよね。仮説が間違っていることを説明できる結果が得られるならまだしも、どうにも議論が難しい結果しか出なかった場合は、路線変更せざるを得ないことだってあるかもしれません。

生徒:でも一応先生の下で研究をする学生何ですし、そこは先生が何とかしてくれるとか……

先生:もちろん手助けはするでしょうが、答えを知っているわけではないですからね。何なら、博士課程の研究は先生よりも本人の方が詳しいということもよくありますから、結局ある程度は自力でなんとかするしかないというものですね。

生徒:なるほど……精神的プレッシャーというのは?

先生:やはり、答えが分からない、そもそも答えが存在するかも分からないことをずっとやっていて、でも3年間で結果をまとめなければいけない訳ですよね。もちろん、3年以上続けることも可能な訳ですけれど、どこかで落としどころを付けなければ博士論文にはならないので、長くなったらなったでそこの見極めは難しくなってしまいますね。多くの研究は、何か一つのことが分かるとそれの倍以上新しい謎が生まれるので、続けようと思えば永遠に続けられてしまいます。そこをいかに区切り、完結したストーリーにまとめるかというのが結構難しいですし、頑張ったけれど結果として表に出ない仕事もたくさん生じます。そういう意味で、努力が報われないという気持ちもかなり溜まると思いますね。

生徒:はぁ……ここまで聞くと、結局は運とメンタルなんじゃないかと思えてきてしまいますが、そういうことではないですよね?

先生:まあでも実質、半分くらいはそういう要素なんじゃないでしょうか。というか、博士課程とかではなくて、何事においてもそういう要素はありますよね。

生徒:なるほど……博士課程を生き延びるために、今からやっておいたほうがいいことはありますか?

先生:誰でも言うこととしては、ちゃんと先を見据えるのと、周りをよく見ることですかね。でも、実際には結構難しいことも多いですし、あまりガチガチに決めてしまうと何かうまく行かなくなった時に凄く困るので、ある程度はしなやかにいないといけないですね。

生徒:博士課程を経て教員になった人に聞くと、「なんとなく進んだ」という人も多いですよね※1

先生:そうですね。博士課程に進むか働き始めるか、多くの人はどちらも経験したことがないわけで、どちらも自由に選べる環境にいる人は、強い決め手に欠けるということもあると思います。研究の現場は、特に実験だと常に人手不足なので、やることがなくなるということはまず無くて、自然と修士の研究をもう少し続けるというモチベーションにもつながり安いんじゃないでしょうか。

生徒:「自由に選べる環境」というのは?

先生:これはひとえに経済的な環境じゃないでしょうか。日本の大学院システムでは※2大学院生は授業料を納める学生という立場なので、なんらかの方法でお金を得ないといけません。近年はフェローシップ制度が充実し、実質的に不労所得を得られるようなプログラム※3もありますが、いずれも選抜制で枠が限られていて、しかも就職した同年代の人に比べると給与水準は低いと言われています。そういった援助でなんとか3年間生き延びても、その先に働き口が得られる保証はありません。博士課程を終えて就ける職は大抵任期付きです。

※1 これは(私の周りの局所的なことかもしれませんが)実話です。ただし、「なんとなく」という言葉が指す意味は幅広いという点は注目すべき点です。
※2 アメリカやスイスなど、大学院博士課程で正式に給料がもらえる国も多くあります。その場合は学部の授業のTAなどで「業務」を行うことになります。
※3:例えば、日本学術振興会の特別研究員(DC)制度や、大学が主宰する「リーディング大学院」「卓越大学院」プログラムがあります。

生徒:ここまで聞いてしまうと、博士課程に進むメリットがないように思えるんですが……

先生:メリットの有り無しで考えてしまうと、魅力は少ないんじゃないですかね。それを差し置いて、研究している方が面白いと思う人たちが進むんだと思います。逆に言えば、自分が面白いと思わないことは、どんなに頑張っても出来ないので※4、それは大きな決め手なんじゃないでしょうか。

生徒:うーん、なんだか色々聞いても、まだモヤモヤが……

先生:正解はないですから、色々と考えるとよいのではないでしょうか。最後は自分の意志で決めれば、少しは踏ん張れると思いますよ※5

※4 「面白くないことを頑張る」というのは、どの道を選んだとしても必ずぶつかる困難です(「今自分がやっていることが『やりたいこと』なのか『やるべきこと』なのか、という葛藤」参照)。大学院で本当に役立つ能力は、「面白くなさそうなことを面白そうにやること」なのではと思っていますが、これに関連した話を原子物理学者の早野龍五先生が『高校生と考える21世紀の論点』(左右社)でされています。
※5 博士課程・研究者に至る道のりについて、色々な書籍が出ていますが、一番参考になるのは現役大学教員が自身のホームページで大学院生向けに書いている自分の経歴やガイダンスの文章です。大学院の道のりは分野によってだいぶ異なるので、自分の興味ある分野の先生の生い立ちを調べると、自分の将来をイメージしやすくなります。


プロフィール
小澤直也(おざわ・なおや)

1995年生まれ。博士(理学)。
東京大学理学部物理学科卒業、東京大学大学院理学系研究科物理学専攻博士課程修了。
現在も、とある研究室で研究を続ける。

7歳よりピアノを習い始め、現在も趣味として継続中。主にクラシック(古典派)や現代曲に興味があり、最近は作曲にも取り組む。


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