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ピアノが上手な人は、なぜ上手なのか-物理的に考えると?<後編>ーー東大出身の理学博士が素朴で難しい問いを物理の言葉で語るエッセイ「ミクロコスモスより」㉘


「ピアノの上手さ」の要素を以下の3分解し、物理的に考察するテーマ。
今回は<後編>です。
・空間的な正確性
・時間的な正確性
・強度的な正確性

<前編>はこちらから


【時間的な正確性】


これは「正確なリズムを刻む」ということではあるのですが、これには「短期的なリズム」と「長期的なリズム」の2つに分類できます。「短期的なリズム」は、例えばスケールやアルペジオの練習のように、すべての音が時間的に均質になっている(俗にいう「粒がそろっている」)状態です。これは「空間的な正確性」で挙げた「無意識的な動作」を構成するものなので、1音1音を意識してそろえることは困難です。一方で「長期的なリズム」は、息の長いメロディーやリズミカルな曲でのテンポの揺れ動きを指します。例えば威勢のいい行進曲で、テンポが速くなったり遅くなったりの千鳥足では聞いていられないですし、逆にオペラのアリアをメトロノームに合わせて正確なテンポで刻んでいては、それはそれで聞くにたえません。曲やフレーズにはそれぞれ固有の「望ましい時間の進み方」があり、それをいかに実現できるかが、「長期的な時間的正確性」です。

短期的な時間的正確性
まずは「短期的な時間的正確性」を取り上げましょう。無意識な一連の動作のもっとも典型的な例は、次のようなパッセージです。

単純に右手の親指から小指にかけて順番に鍵盤を押さえて離す動作を繰り返すだけですが、難しいのは、一本一本指の構造が異なっている点です。
親指は他の指と異なり手首に直接関節がつながっているため、他の指に比べて大きな動きをするのに多くの労力を必要とします。人差し指と中指は比較的動かしやすいですが、親指や小指と比べて長いため、鍵盤上に置いたときに関節を曲げて縮こませなければ鍵盤の広い部分を押さえられません。
薬指や小指は日常的に細かく動かす機会が少ないため、相対的に動きが鈍いです。
このように5本の個性豊かな指を集めて統一的に動かすのは、実はかなり無理のあることです。そして、これは各々の指が望みどおりの動作をするように訓練するほかありません※5
速い動作が必要な場合は、ある指を下ろしてから上げるまでの間に次の指の動作を開始する必要があります。体全体を連携させながら一本ずつの指が正しいタイミングで動かせるように、「通し稽古」を何度も繰り返します。

※5 ここでも、スケール(音階)の練習が役立ちます。特に、いろいろな調でスケールを練習することで、それぞれの指が様々な役割を果たせるようになります。なお、最初に習うスケールは多くの場合はハ長調ですが、指の長さを考慮するとロ長調の方が初学者には易しいという説もあります。しかし♯5個の調号が付いた譜面は威圧感があるため、必ずしも初学者向きとは言えないかもしれません。

長期的な時間的正確性
次に、「長期的な時間的正確性」についてです。オペラのアリアは、節回しに合わせてテンポが伸び縮みするのが常ですが、それも素人が真似しただけでは「ただ不安定なだけ」になりかねません。フレーズの起承転結や小動機の切れ目を認識し、しかも話し言葉を参考に局所的なテンポの揺れを判断します。器楽曲では、呼吸も不要で歌詞が無いため、おかしなテンポ・ルバート(自由な速さで)が許容されやすい傾向がありますが、音楽本来のリズムを歪めるようなテンポの揺らぎはやはり品がないものです。
特に、技術的に困難な個所で技術のなさをごまかすかのようにテンポを遅くし、あたかも「情感を込めて弾いている」感を醸し出すようなテンポの揺らぎは聴衆の失笑を買うことでしょう。

【強度的な正確性】

音のスペクトルがどう変化していくか
聞き慣れない方言での会話を聞いたときに、単語は標準語と一緒なのに一瞬戸惑うことはないでしょうか。日本語は厳格に声調が定められているわけではないですが、イントネーションが重要であることは間違いありません。
音楽では、瞬間的な音の強弱が強調されがちですが、実際には音を出した後の響き方も含めた、より広義の「音の強弱」によってイントネーションが決まります。楽器が発する音は単一周波数の正弦波ではなく、様々な周波数を含むため、時間とともに音のスペクトルがどう変化していくか、が音楽のイントネーションを作り出します。
声楽や弦楽器など、直接発音部分をコントロールできる場合は分かりやすいですが、ピアノでは鍵盤をどれくらいのスピードで下ろすかでしかコントロールできないため、「音の強弱」も、いわゆる「音色」も、限られた制御パラメータで工夫するしかありません。

さて、既出の2つの正確性※6は、何も考えずにひたすら身体に染み込ませることで、ある程度習得できるものです。一方で、「音の強弱」「音色」のようなものは、いかに楽器の物理的特性を心得ているかに大きく左右されます※7。そして、ただ繰り返し訓練するだけでは身に付かない要素だからです。

※6 【空間的な正確性】と【時間的な正確性】を参照

※7 ピアノ教室で、グランドピアノを購入するように執拗に勧められることがありますが、それは主にこの「強度的な正確性」に相当する部分を学習するためには、グランドピアノの構造に直接触れる必要があるためです。
ピアノ演奏で世間に評価されるレベルになるためにはグランドピアノで日々練習すること(そしてそもそもグランドピアノを所持できるほどの経済力と家庭環境!)が不可欠ですが、近年はYouTubeなどのおかげで日本のクラシック音楽界隈のアカデミズムが希薄化してきており、ただ楽しむために音楽をやることがより認められるようになってきていると感じています。一般家庭でも入手可能な電子ピアノも近年は目覚ましい発達ぶりなので、いずれは「グランドピアノでないと練習にならない」などという観念も希薄化してくるのではないかと期待しています。


音の強度は様々な音のバランスで決まる

ピアノの鍵盤を押すと、ハンマーが弦を叩く音(楽音)の他に、指が鍵盤にぶつかる音、鍵盤が底にぶつかるときの衝撃音、ダンパー(ピアノ本体の音を止める(弦の振動を止める)装置)が弦を離れる音などの雑音が加わります。
また、鍵盤を押すスピードを遅くしていくと、どこかを境に楽音が出なくなります。すなわち、ハンマーを跳ね上げる勢いが弱すぎて弦まで届かず、ハンマーを跳ね上げる「カクッ」という雑音だけが聞こえるようになります。音の強度は、このような様々な音のバランスで決まります。
指先を立てて、指の勢いだけで鍵盤を素早く叩くと、楽音やダンパーが離れる音は強くなり、一方で指は非力なので鍵盤が底につく頃にはスピードが落ちてしまい、鍵盤の雑音は弱くなります。
逆に指先と指の腹の間を鍵盤に触れさせ、手首で鍵盤からの抗力を受けるようにしつつ、手全体の重さで鍵盤を押すと、鍵盤が加速度的に下がっていき、底につくタイミングで最高速度に到達します。前者は乾いた粒立ちのいい音、後者は豊かな響きの音に聞こえるでしょう。

「脱力」こそが「ピアノの上手さ」
指主導の弾き方でも、指先だけで弾くことは良い音が出ないだけでなく、けがのもとになります。実際に自分の体で観察してみると良く分かりますが、指先には筋肉が無く、指先を動かす際に使っている筋肉は、実は前腕にあります。足がこわばっていればうまく歩けないのと同じように、手首や腕がこわばっていたら指先は当然うまく動きません。前腕から指先までが、まるでアーチ型の橋※8のように自然と自重を支えられるようになっていて、手首が指先からの衝撃を吸収するために必要な力以外の余計な筋力を使わない状態こそが、良い音を出すための理想的な体の状態です。そして、この「脱力」こそが「ピアノの上手さ」につながっていると同時に、もっとも習得が難しいものです。
この「脱力」の秘訣をぜひお伝えしたいところですが、残念ながら私にもよくわかりません。きっとプロの演奏家にとっても追求し続けるテーマなのでしょうが、繊細な響きの違いが聞き分けられるための良い楽器と良い耳がなければ究めることは困難です。

※8 アーチ型の橋は、荷重による力を部材に対する圧縮力に転換する仕組みの構造であり、安定な橋の構造として古来より採用されてきました。


まとめ
なお、今回は物理要素が少ないですが、良い音を出すための体のフォームを決めるためには骨格と筋肉による構造力学が深くかかわっているものと思われます。もっとも、身体は物理で扱うには複雑な系なので、机上の理論よりも実践的な習得の方が効果的なのは言うまでもないかもしれません。

「ピアノの上手さ」を決める指標は様々であり、プロのピアニストでも同じ曲を人によってまったく異なる弾き方をするものですが、表面的な「空間的・時間的正確性」に加えて「強度的な正確性」が重要です。
それは、体全体が建築物のように、各パーツが互いに自然と支えあい余計な力を使わないようなフォームを確立することから始まります。
作曲家・ピアニストのフランツ・リストが、初期は超絶技巧の開拓に明け暮れたものの、晩年には静かな宗教曲を作るようになったのと同様に、音楽は大道芸的側面ではなく一音一音の美しさを研ぎ澄ますことが本質であると強く感じています。


プロフィール
小澤直也(おざわ・なおや)

1995年生まれ。博士(理学)。
東京大学理学部物理学科卒業、東京大学大学院理学系研究科物理学専攻博士課程修了。
現在も、とある研究室で研究を続ける。

7歳よりピアノを習い始め、現在も趣味として継続中。主にクラシック(古典派)や現代曲に興味があり、最近は作曲にも取り組む。

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