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ナボコフの視覚的なトリック(『カメラ・オブスクーラ』)ーー東大出身の理学博士が素朴で難しい問いを物理の言葉で語るエッセイ「ミクロコスモスより」㊶

ウラジーミル・ナボコフは、私の敬愛する作家の1人です。
有名な(悪名高い?)『ロリータ』をはじめ、少し危うい主題を用いつつ、計算され尽くしたストーリー展開や洒落た言葉遊びで、技巧的な小説を多く書いた人物です。
翻訳にもこだわりが強く、母国語であるロシア語で書いた自身の作品を自分で翻訳してしまったり、そもそも英語で作品を書いてしまったりするほどで、おかげで我々のような非ロシア語話者にも楽しめる作品を多く遺しています※1

※1 海外文学好きとしてとても共感する価値観です。辞書の上では対応する語彙であっても、その言語が用いられる文化圏特有の意味が付随する以上、翻訳という作業はどこまで突き詰めても近似にしかなりません。また、元の言語特有の言葉遊びは、発音が異なる外国語では当然成り立たず、翻訳作品のそのような箇所では翻訳者の苦労が垣間見えます。それを踏まえた上で、作者本人が複数言語で作品を書くことで、翻訳という(ともすれば伝言ゲーム的になりかねない)作業を避け、本来の意図により忠実な表現を選ぶことができると考えられます。

そんなナボコフの作品では、視覚的なトリックがたびたびモチーフとして使われます。
抽象的には、『青白い炎』や『ロリータ』で提示される「信頼できない語り手」※2の存在、より直接的には「カメラ・オブスクーラ」でクレッチマーが失明するという展開に見られます。

※2 どちらの作品も、主人公が手記の中で日々の出来事を書き連ねていく形式になっていますが、『青白い炎』では誇大妄想で、『ロリータ』では偏った愛情により、いずれも事実が大きく捻じ曲げられていきます。

このような作品においては、「客観的な出来事」と「客観的な出来事を直接見ることができない読者」との間をいかに橋渡しするか、という問題が浮き彫りになります。
つまり、「客観的な出来事から、読者の(脳内に想起される)五感へと情報を射影する語り手」が存在して初めて、読者は客観的な出来事を認知することができるということです。

これは文学に限られた話ではありません。
作家が対象を言語へと射影するように、画家や映画監督は視覚情報※3へ、音楽家は楽音※4へと射影します。

※3 これは例えば、セザンヌに端を発するキュビスムに顕著に感じられます。すなわち、絵画を構成する個々のパーツは私たちが普段見るもの(写実的)であるにも関わらず、それらを描き手がわざと「間違った」方法で再構成することで、現実では見ることのできない風景が出来上がります。

※4 「標題音楽」と呼ばれるクラシック音楽のスタイルでは、ある実在の題材を音楽で表そうとします。


プロフィール
小澤直也(おざわ・なおや)

1995年生まれ。博士(理学)。
東京大学理学部物理学科卒業、東京大学大学院理学系研究科物理学専攻博士課程修了。
現在も、とある研究室で研究を続ける。

7歳よりピアノを習い始め、現在も趣味として継続中。主にクラシック(古典派)や現代曲に興味があり、最近は作曲にも取り組む。

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