「傷ついた経験は創作の糧になる」という逃げ道がなくなった
ついに何者にもなれなくなった。
シナリオライターというか創作全般を辞めると決めてから一番つらかったのがそれだった。私の中の数少ない自己肯定できる点が「創作をする人である」という自己像だったからだ。
シナリオライターをやっている間、私は自分の歪んだ認知や度重なる失敗、ようするによくないところ全般をどこかで"糧"だと思っていた。この気持ちや経験はいつか作品にいかせるはずだと。だから私のよくないところは無駄ではないんだと思っていた。自分はこれだけ大変な思いをしているんだから、きっといつかこの体験をもとにすばらしい創作物が生まれるんだと思い込んでいた。そして自分自身の評価としては「『これだけ歪なのだから』いいものを作れる人間であるはずだ」と考えていた。
今考えれば、能力の凹みや、ついた傷の多さが創作の能力に直結すると信じ込んでいたのだった。
私は創作をしている間、「創作をする人」というラベルの中で自分のクズ具合から目を背け続けてきた。
創作は成果史上主義である。成果さえ出せば底辺のクズだあろうと構わない。裏を返せばどんな社会不適合者であろうと創作をする人で有り続けるかぎり「創作をする人」というレベルの庇護のもとにいられるのだ。そのラベルを貼り続けられなくなって私は、やっと自分が創作を言い訳にして、自分自身の人格の問題から逃げ続けていたことを知った。
今でもかすかに日常生活の中で傷ついたとき、いつかこの気持ちを文章とかなにかにいかしてみたい衝動にかられるときがある。
けれど、現実の私に目を向けなければならない。
今私は、note以外で何も書いていない。書こうともしていない。創作する場に身をおいていない。
「いつか」などと言ってる時点でもうだめなのである。
私の失敗や傷が創作の糧になることはない。それはただの失敗であり、ただの傷であり、ただの過去だ。
創作の糧とかいうふわふわした自己憐憫をやめるときがきた。
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