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マイケル・ジャクソン
私は小さい頃、松田聖子が好きだった。可愛くて、ニコニコしている聖子ちゃんのブロマイドを大切にしていた。それからは、アイドルを追っかけ、一時期はインディーズバンドにはまったりして、流行を追っかけてるやつは魂を売っていると本気で思って、王道の有名人はシャットアウトしていた。
だから、マイケル・ジャクソンも超王道だし、何より色々な疑惑も相重なってあまり興味は持てないでいた。スリラーとかは、とんねるずの番組でパロディされてそれなりに楽しんでいたが、いまひとつハマるまでにはならなかった。
そんな私がある時、マイケルにドハマリして、マイケル漫談まですることになろうとは思わなかった。患者さんや同僚にして、大絶賛だった。
子どもができて、友達もあまりいない土地での子育てだったので、色々考えて日々を過ごしていたのかもしれない。
とあるマイケルファンの方にその当時書いた自己紹介文を一部抜粋、変更して記載する。
マイケルジャクソンとの出会いは、 2015年になります。スリラーあたりからマイケルのことは 知っていたのですが、 居て当たり前の存在として、メジャーすぎて、 そしてお騒がせセレブとしての情報が先走り、 あんなに素晴らしい功績を残していたのに 気づかない、大事なことに気付けない女子でした。 今思いかえしてみれば、Michaelはちょっと気になる存在ではあったのかもしれません。 なぜかというと、私もMichaelのように 愛を探しているところがあったからです。 なにか自分にしっくりくるもの、好きなことがない子でした。小さい頃は水泳をしたり、ピアノを習ったり、色々親にさせてもらって、TVを部屋につけてもらったり、毎朝駅に車で父に送ってもらったり、好きな学校に行かせてもらったり 色々してきたのに満足しない子でした。 我がままじゃないんです。幸せじゃない感じが 悶々としていました。 ただ時に流され、自分で決めているようで、 人にばかにされない程度の脱線をしつつ、 生きてきた感じでした。 音楽は好きでした。楽器は演奏できないけど (ピアノは習っていたが、練習が嫌いで挫折) 聞くのが大好きでした。 初めて買ったCDはKANと小田和正でした。 父がカーペンターズと小椋桂のCDをくれました。何でも好きだけど、自分の特徴として、その歌手の人のバックグラウンドも知りたいというのは共通していました。(以前、Michael本の作者でもある西寺郷太さんも同じようにおっしゃっていて、感動しました) それから、バンドブーム、テクノ系、そしてインデーズ(渋谷系)などを聴き、 そのあたりで、アジアの五月天や四分衛というバンドにはまり、 中国大陸の花児というバンドも聴いていました。
それから、あまり音楽を聴くことなく、看護学校に行ったりで忙しい日々を送り、長男が生まれました。 その時に、自然派育児をされている方たちに出会ったことで、自分の信じている世界と反対なことがあることを知ったのです。正しいと思っていることが、反対のこともありうるのではと感じることになりました。また、父がアルコールール依存症と食道がんの闘病の果てに亡くなるという事実も交差し、 我が子をどうしたら、束縛なく、自分も穏やかに、そして自由に育てることができるのか知りたくなり、学び始めることにしたのです。
そんなこんなで、出会ったのがマイケルジャクソンその人でした。 何気なく見ていた NHK BSプレミアム「アナザーストーリーズ 運命の分岐点『マイケル・ジャクソン降臨』でした。 その時まで、ただのアイドルなだけと思っていたマイケルが実はいろいろな考えをもって、世界に向けて発信していたことを知りました。それで調べるようになり、曲を聴き、SFを見、本を読み、感動の毎日を過ごしています。 マイケルが大の読書家ということを突き止めた私は、その本たちを検索してあなたと出会いました。
つまり、何も考えないで生きてはいけないと気付いたのだ。マイケルは超黒人的なソウルを敢えて封じ込めて、自分がメジャーになることで戦っていたのかもしれない。でも、人間的なのだ。弱さや脇の甘さがあるマイケルにハマったことで、更に世界を広げたと痛感している。
児童虐待虐待疑惑のマイケルもマイケル、顔がいつしか変わっていったのもマイケル、声だけは変わらず歌い続けたのもマイケル、子どもたちが大好きで、友だちになりたかったのもマイケルなのだ。
人一人の人生は壮大だ。簡単に語ってはいけない。リスペクトを持って、それは患者さんであっても同じだ。マイケルという人を通して学ぶことがやめられない。