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フリースペースで見つけたわが子の個性
ドアを開けると、さっそくスタッフさんが明るい笑顔で出迎えてくれた。ここは行政が運営している子どものためのフリースペース。
わが子はと見ると「ああ、ここか」と少し慣れたような顔をしているように見える。
フリースペースでは、子どもと母親が一緒に過ごすことができる。おもちゃや絵本など、子どもが喜ぶものがたくさんあり、遊びに困ることはない。娘とも何度か訪れた。その度に、娘は見たことのないおもちゃに興奮して、夢中になって遊んでいた。
フリースペースに行き始めたのは、娘が1歳を過ぎたころだった。そのころから娘の活動量は日増しに増え、家で二人きりで遊ぶのはなかなか大変になっていた。
生まれてまもないころに訪問してくれた助産師さんが「こんな場所もあるのでよかったら」と渡してくれたパンフレットを引っ張り出してきて、子ども以上に緊張しながらフリースペースの門を叩いたのだった。
他の子どもとおもちゃの取り合いになったときはどうしよう。
子どものお母さんたちとよい関係を作れるだろうか。
そんなことを悶々と考えながら踏み入れたフリースペースは、実際のところ、拍子抜けするくらい、ただただありがたい場所だった。
フリースペースでは必ず親がついているということや、常駐しているスタッフさんが気を配ってくれているおかげで、子ども同士の小さなトラブル(おもちゃの取り合いとか、ぶつかって泣いたとか)はやんわりと解決されていた。
また、親同士の関係も、求めなければそれぞれただ挨拶をするという程度にとどまっており、わたしのように突っ込んだ関係を築くことが苦手な人間は、そんなドライな関係でいられることにほっとしていた。
フリースペースを利用し始めて、何回か経ったころだった。
室内には普段よりも多くの子どもたちがおり、それぞれ賑やかに遊んでいた。
娘は室内に入ったっきり、入り口あたりで座り込んで、動こうとしない。スタッフさんの一人が「今日は何をして遊ぼうかな〜?」と言って、おもちゃをいくつか取ってきてくれた。娘はそのおもちゃを手にとって少し遊んでいたが、またしばらくすると、じっと周りの様子を見ている。あいかわらず入り口の前から動かない。「おいでよ」と言って、部屋の真ん中あたりから声をかけてもそのまま座っている。
「この子はこういう子なんだな」と、その時思った。
結局、その日過ごした1時間半ほどの間、娘はほとんど場所を変えずに座りこんでおり、たまにおもちゃで遊ぶほかは、ずっと他の子どもたちの様子を見ていた。
その日のことを夫に話すと、「まるで親とそっくりだね!」と言った。
そう、わたしたち夫婦も決して社交的な方ではない。初めて会う方を前にすると緊張してうまく喋れなくなってしまう。人の輪の中心にいるよりかは、端っこの方にいる方が居心地がいい。
フリースペースにはたくさんの子どもたちが来ている。同じ月齢の子どもも大勢見たけれど、それぞれの個性というものが、1歳そこそこであっても現れていることが面白い。
そう、持って生まれた個性として、端っこで座りこんでいた娘の姿があると思うと感慨深い。
ところで、赤ちゃんの成長段階で現れる「人見知り」とはどのようなものだろうか。
赤ちゃんの人見知りは、知らない人に話しかけられたり、抱っこされたりすると泣き出してしまうという形で現れる。
人見知りの原因は、知らない人やものに不安や恐怖をもつことによるそうだが、知らないものや人に対して、興味や好奇心も同時に抱いているそうだ。
人見知りができるのは、赤ちゃんの記憶や認識力、感情が発達しているから。つまり、人見知りは赤ちゃんの成長の証ということらしい。
端っこで座りこんでいた娘を「人見知り」と言い切ってしまっていいのかはわからないけれど、その行動の背景には、新しいものや人への不安と好奇心があったのだと思う。そして娘の場合は、すぐにその場の中に入って行くのではなくて、じっと様子を見ることを選んだのだと思う。
大人になったわたしも、この人見知りはしょっちゅう起こる。
「石橋を叩いて渡る」と言えば、多少は聞こえがいいけれど、初めてのことや難しいことに関してはなかなか一歩が踏み出せない。
また、初めて会う人の前では普段の10分の1も口が回らず、たどたどしい会話をして後で落ち込んでしまうことも少なくない。
そんなことを夫に話すと、「でもね、僕は努力で人見知りを乗り越えたよ」と言った。
彼いわく、夫も元来は人見知りの人間らしい。人が大勢いる場所が得意ではないし、人と会話をすることも得意ではない。
それでも、彼は人前で話すことが多い職業を選んだし、初めての方と会う機会も多い。それを望んだわけではないのだろうが、自分の選んだ道を進む中で、人見知りを乗り越えていったようだ。
「『元々人と話すことが得意なんですか?』って聞かれることもあるけど、すごく苦手だったよ」そう言って夫は笑った。
「努力を積み重ねて、苦手なことを乗り越える」
こういうあり方もあるのだ、と思う。
対してわたしは、なるべく自分が楽でいられるように人生を選択した気がする。対面で話すことはからっきしダメでも、文章でならコミュニケーションが取れる。だからライターという仕事を選んだ。
自分が得意なこと、楽なことを選ぶ。
昔はそういう風には考えられなくて、自分の苦手なことをなんとか克服しようと頑張っていた。だから営業という仕事を選び、毎日見知らぬ人に声をかけていた。しかし、努力は実らなかった。というよりも、努力をし続けることができなかった。
今は、苦手なことを無理に努力しなくても良いと思えて、とても楽になったし、毎日が楽しい。
どれが良い、悪いということはない。その人自身が決めたあり方が正解なのだ。
だから、娘がフリースペースで、中に入って遊びに行こうとせず、ただ端っこに座ってじっと周りを見ている姿を見たとき、「これがわが子の姿なんだ」と知って嬉しかった。この子らしさを見つけられた気がした。
これから娘がどのように成長していくのかはわからない。自分の気性を知って、どのように向き合っていくのかもわからない。
きっとこれからも、日々、「この子はこんな子なんだ!」という発見があることだろう。その発見には、手放しで喜べることもあればそうではないこともあるだろう。
でも、丸ごとわが子の姿なのだ。
そして、どんな性格や気性であっても、それを良い生き方のために用いる選択肢があるのだ。
そんなことを思いながら、どっしりと受け止めるつもりで、娘を見守っていきたいと思った。