「ごめんなさい」がうまく言えなかった
もうすぐ生後8ヶ月になろうとする娘は、ずいぶんと指先が器用になってきた。台所でキャベツの千切りをしていて、キャベツの切れ端が下に落ちようものなら、2、3メートル離れたところからであってもお腹をはって近寄り、小さな指先でキャベツをつまみ上げ、しげしげと眺めるのだ。もちろん、口に入れると不衛生なのでつまみ上げた瞬間、わたしによって没収される。
先日、そろそろ寝る時間だからと娘と寝室にいた。夫はまだ仕事があるのですぐには寝ないが、娘と遊ぶために寝室に入ってきた。
「痛い!」
頭の痛みで思わず声が出た。
娘がわたしの髪の毛をつかみ、遠慮なしに引っ張ったのだ。最近わたしの髪の毛は、娘につままれる恰好の的になっていた。今回も、引っ張られて抜けた髪の毛数本が娘の手に握られている。
とはいえ、やめてと言ったところで娘が理解できるわけでもないし、髪の毛を娘に触らせないようにするのが、わたしにできる唯一の対処法だった。
すると、側でこの光景を見ていた夫が娘に近寄り、
「お母さんにごめんなさい」と言って、娘の頭を下げさせた。
娘は腹這いの姿勢。頭を下げられてそのまま布団に突っ伏しているような姿になった。居心地が悪いのか、娘は不服そうな声をあげてすぐに顔をあげた。
それでも何度か夫は
「ごめんなさい」と言って娘の頭を下げさせた。
特に厳しい口調でもなく、いつもと変わらない穏やかな様子でこのやりとりをしていた夫。
しかし、やりとりを見ているとわたしの心の奥が、キュッと痛むような感覚を覚えた。
「ごめんなさい」と言いたくない…
娘の姿を見ながら、勝手に自分の思いを投影していた。
わたしは子どもの頃「ごめんなさい」を言った記憶がほとんどない。
覚えていないだけなのかもしれないけれど、自ら「ごめんなさい」と言ったことも、言いなさいと促されて言ったこともほとんどないのではないだろうか。
両親がわたしに対してそれを求めなかったとということも、理由の一つにはある。そして学校の中でも、どちらかと言えば先生や決められたルールに従うことを大切にしていたわたしにとっては、叱られることも、謝らなければならない機会もほとんどなかったのだ。
「ごめんなさい」と言わずに過ごしていたわたしは、いつしか「ごめんなさい」を言う必要のない、良い人間として生きているような、そんな考えに陥っていたのかもしれない。
いよいよ大学を卒業し、社会の中に出て働くようになった。
ある日、自分が親しくさせてもらい何かと可愛がってくれる年上の女性と同じ車に乗る機会があった。
なんの拍子か忘れてしまったが、車の中での会話で、わたしが相手にとって気の触ることを言ってしまった。
その女性とは付き合いも長く、互いに気心の知れた仲という勝手な甘えがわたしにはあった。明らかに彼女が不機嫌になったのにもかかわらず、わたしはそのことを軽く流そうとしてしまった。
すると、彼女が「謝りなさいよ」と言った。
その強めの語調と言葉を聞いたとたん、体が強ばり、そして頭が真っ白になってしまった。
自分が悪いということはわかっているのに、言葉が出てこない。そして感情がついてこない。
申し訳ないという思いよりも、恥ずかしさと恐れが心を占めていた。
なんとか振り絞るように言った謝罪の言葉を聞いて、彼女はいつも通りの様子に戻ってくれた。
「ごめんなさい」と言うことが、どうしてこんなにも苦しかったのだろう。
それはきっと、自分が過ちを犯す人間だということを認められなかったから。いつも自分は正しい側にいる「いい子」であると思い込んでいた。
33年間生きてきた今となっては、自分がいかに過ちの多い人間であるかということは痛いほどわかっている。
そして、人と共に生きている以上、誰かに対しても大なり小なり過ちをおかすこともある。
そんな時、完全な人間を装うのではなく、素直に「ごめんなさい」と言えたらどれほどよいだろう。
娘に「ごめんなさい」をさせて、その後何事もなかったかのように遊んでいる夫と娘の姿を見て、妙に清々しい思いになった。
謝ることは恥ずかしいことでも、自分を否定することでもない。
「ごめんなさい」と言って許されること、それはなんて自然で健全な人との関係だろう。
これくらいは許されるだろうという甘えとか、変なプライドが邪魔して、今でも「ごめんなさい」がうまく言えないことがある。
でも、小さな頭を下げて「ごめんなさい」をした娘を思い出し、わたしもそうできるようになりたいと願うのだった。