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【第二夜】ヨースタイン・ゴルデル著、池田香代子訳『ソフィーの世界』

かつて「NOW 1」という洋楽オムニバスCDがあった。1993年に発売されたアルバムだが、このアルバムを聴いてクイーンの「伝説のチャンピオン」、ペット・ショップ・ボーイズの「ゴー・ウェスト」、レニー・クラヴィッツの「自由への逃走」などを知り、その後色々な洋楽を聞くようになった。「オムニバスCDというの実にお得だな」という意識が刷り込まれ、その後、iTunesが登場するまでは洋楽に限らず様々なオムニバスCDを買うようになった。

「オムニバス」というのは実に素晴らしくて、圧倒的なコスト・パフォーマンスを発揮する。今になって考えてみると、本にも「オムニバス」というものは存在して「NOW 1」の存在を知った頃に「哲学のオムニバス書」と出会っていた。それが今回紹介するヨースタイン・ゴルデル著、池田香代子訳『ソフィーの世界』(NHK出版、1995年)である。

『ソフィーの世界』の原書は1991年にノルウェーで発表され、1995年に日本語版が発表された。原書が発表された時、著者のヨースタイン・ゴルデルは39歳であり、現在の私の年齢と同じである。元々高校の哲学の教師であったとはいえ、39歳にしてこれだけわかりやすい哲学のファンタジーを執筆したことにただただ驚愕する。

私がこの本を手に取ったのは1996年、高校に入学してすぐのことであった。ちなみに1995年にNHK FMで放送されたラジオドラマ版も聞いた記憶があるので、ある程度あらすじがわかっている状況で読んだことになる。あまり学校になじむことができなかった中、ウォークマンでサイモン&ガーファンクルやビートルズを聞きながら『ソフィーの世界』を読むというのが高校に入った頃の楽しみであった。(随分と根暗な高校生だった)。

『百夜百冊』を書くにあたって約四半世紀ぶりに全編を読み直してみることにした。「第一夜」を書くにあたって読み直したヴォルテールの『寛容論』と比べるとかなり内容を覚えていた。もちろん、『ソフィーの世界』を読んだ後に他の哲学入門書や哲学書、関連分野の書籍を読んだことによって、15歳で読んだ時よりも哲学に関する「予備知識」が「蓄積」されていたことも関係しているだろうが、本書の主題となっている哲学史以外のかなり細かいところまできちんと記憶に残っていた。『寛容論』を読んだのが2016年と比較的最近であることを考えると、四半世紀ほど前に読んだ『ソフィーの世界』がいかにわかりやすく書かれていたか、そして当時の自分がいかにこの本に強く引き込まれていたのかがよくわかる。

15歳でこの本を初めて読んだ時、冒頭の「あなたは誰?」という問いかけこそが本書の中で最も重要な部分だと思っていた。この問いかけに対して古今東西(本書では「西洋哲学」のみが扱われており、残念ながら「東洋哲学」は扱われていない)の人間がどう考えてきたかについてファンタジー調で解説し、読者(本書の中では読者たるヒルデ)に対してもこの問いかけを行い、読者がどう考えるのかを期待しているというのが著者のメッセージであると読み取った。

また、当時特に深く考えたのは、『ソフィーの世界』は少佐によって描かれた世界であり、「少佐とヒルデの生きる世界」はヨースタイン・ゴルデルによって描かれた世界であるが、「ヨースタイン・ゴルデルと私の生きる世界」もまた、実は「誰かによって描かれた世界なのではないか?」ということだった。もしこの世界が「誰かによって描かれた世界」なのだとすれば、今ここで「私」がなしていることは、「自分の意志」であるようで実は「誰かの意志」でしかないなどと考えたものだった。この時の思考は後にカルヴァンの「予定調和」について学ぶ際に役立つこととなった。

今回、約四半世紀ぶりに読み返してみて、最も印象に残ったのは「私たちの時代」の章(主にサルトルの「実存主義」が扱われている)におけるソフィーとアルベルトの以下のやり取りだった。(588〜589頁)

**「現代は新しいことと古いことのごったまぜ……」

「そう言ってもいいね。なにしろぼくたちがこの講座の初めに立てた問いは、まだ答えが出ていないんだから。実存に関する問いは一回こっきり『はい、これです』と答えが出るようなものではない、とサルトルは言ったけど、これは重要な発言だ。結局、哲学の問いとは、それぞれの世代が、それぞれの個人が、何度も何度も新しく立てなければならないんだよ」

「絶望的な話ね」

「そう?絶望的って言っていいかどうか、ちょっとわからないね。でも哲学の問いを立てるときこそ、生きているって実感しないかい?それに、人間は大きな問いの答えを探していて、ついでに小さな問いの正しい答えをいくつも見つけてきたじゃないか。科学や研究や技術はみんな、哲学の思索から生まれたんだ。とうとう人間を月まで行かせてしまったのは、もとはと言えば存在に対する人間の驚きだったんだよ」**

15歳で初めて本書を読んだ時、「あなたは誰?」という問いかけを考え続けることが重要だと思ったけれども、39歳になった今も結局のところ同じような感想を得たことになる。ただ、その感想は15歳で読んだ時とは比べ物にならないくらい「密度」の高いものになっているのではないかと思うのである。

『ソフィーの世界』は非常に面白い作品だったものの、大学1年生のゼミで丸山眞男とカール・マルクスを学んだ以外は哲学や思想をより深く学ぶことはなくなった。学生時代は国際政治史や安全保障論に、社会人になってからは経済学や経営学に興味がわいたことも一つの理由ではあるが、良くも悪くも哲学を『ソフィーの世界』で広く浅く哲学を学んだことで満足してしまったとも言える。ただ、哲学以外の分野、とりわけ「社会科学」と括られる分野を学び続ける中で、間接的に「あなたは誰?」という問いかけを考え続ける「哲学」をしていたし、これからも「哲学」をし続けるのかもしれない。

冒頭にも書いた通り、『ソフィーの世界』は「哲学のオムニバス書」であり、そのコスト・パフォーマンスはきわめて高い。ただ、「オムニバス」は音楽CDがそうであるように、色々な事情であえて取り扱われないものもある。後にヨースタイン・ゴルデルも認めている通り、本書では「西洋哲学」のみが扱われており「東洋哲学」は扱われていない。そして、20世紀の「西洋哲学」を語るうえで絶対に外すことができないルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインやマルティン・ハイデッガーも扱われていない。

マルティン・ハイデッガーについてはその名前に触れながら(578頁)、あえて飛ばされてしまっている。これは1960年代の洋楽オムニバスを作りながら、ビートルズの曲を1曲も所収していないのに等しい。そういう意味では、『ソフィーの世界』は必ずしも哲学を網羅的に扱っていないという批判は的を射ているとも言える。ただ、『ソフィーの世界』が必ずしも網羅的でないことをもってその価値が低いということにはならないはずである。本書をきっかけとして哲学に興味を抱き、哲学をする人間が増えたことはほぼ間違いないであろう。

これは私の想像の域を出ないが、著者のヨースタイン・ゴルデルはヴィトゲンシュタインとハイデッガーをあえて扱わなかったのではないだろうか?『ソフィーの世界』は日本語版でも650頁を超える長編となっている。この長編にさらにヴィトゲンシュタインとハイデッガーを盛り込むとなるとさらに紙幅を費やすことになると同時に、ソフィーやヒルデのような15歳の少年少女たちが読むには難解になりすぎるという著者なりの「配慮」があったのではないか。また、あえてヴィトゲンシュタインやハイデッガーを扱わず「未完成性」を醸し出すことで、読者に対してさらなる哲学の探求をそれとなく求めているのではないかと思うのである。

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