海底に眠る「戦艦大和」はこうして発見された
「戦艦大和の艦影とおぼしき沈船反応を魚群探知機およびソナーで捉えることに成功!」
それは1982年の出来事でした。
しかし戦艦大和は東シナ海の真っ只中、周囲に何の目標物もない大海原の海中深くに沈んでいます。沈没した位置を推定する資料や文献はあるものの、その正確な位置は当時誰も把握できていませんでした。では一体どのように海底の戦艦大和は発見されたのでしょうか。
この戦艦大和の発見の裏では当時最先鋭の航海電子機器が駆使されていました。当時の記録がフルノの社史や資料に残されています。さらに今回、実際にヤマト探索に参加したOBにも話を伺い、どのようにフルノの電子機器が戦艦大和の発見へと導いたのかを紐解きました。
第3次探索
1982年5月24日、沈没位置を特定せよ
戦艦大和の海底捜索は戦後4回行われています。
第1次探索は1980年、第2次はその翌年。そして第3次探索となった1982年、初めてフルノも参加することとなりました。その頃のフルノは魚群探知機のほか、ロランCと呼ばれた自船位置を把握する航海装置などを製造しており、フルノの参加には大きな期待が寄せられていました。
フルノのミッションは4つ。
・過去の資料等で示された大和沈没の推測位置を決定すること
・その地点を中心に大和らしき沈船反応を探索すること
・沈船反応の形状、向き、深度など様々なデータ収集をすること
・水中ビデオカメラ投入時の操船誘導をすること
戦艦大和を発見するための重要な役割を担っていたことが分かります。
フルノからは3名の技術者が参加、調査本船である第三海工丸に笹倉氏・葉室氏の2名、チャーター船である第三十六野村丸に岡本氏が乗船し、それぞれの船で航海電子機器・超音波機器等を駆使して探索を行いました。
5月24日の早朝、先遣隊として前夜から出発していた野村丸が現場に到着。その現場とは過去資料から推測されていた北緯30度42.40分、東経128度08.80分のポイントです。まずは捜索に先立ち慰霊祭を実施しました。
野村丸は長崎県奈良尾町を母港とする漁船、普段は大型まき網船の付属船として魚群の探索から集魚を任務としていました。そのブリッジ内には様々な電子機器が搭載されている当時最新鋭の漁船です。それらの電子機器は戦艦大和の捜索にも大いに力を発揮しました。
当時はGPSもない時代、自船の位置計測にはロランCシステムという手法が使われていました。野村丸、海工丸にはこのシステムを利用したロランC航法装置、そして航跡を映像で表示するビデオプロッタが搭載されていました。これにより走行したコースがリアルタイムで確認でき、探索漏れや重複などがないよう、効率的に探索することができました。
一方海中探索では当時最新鋭の魚群探知機やソナーが使われました。野村丸には自船の全周囲360度、半径1600mの範囲を一瞬で捉えることができるカラースキャニングソナーが、そして海工丸にはフルノが世界で初めて開発したサイドルッキングソナーが搭載されました。このサイドルッキングソナーは船の側面方向を観測する装置で垂直面に広いビームを持つという特徴があります。このソナーで連続観測すると航空写真的な映像を映し出すことができるという画期的な製品でした。
これらの機器を組み合わせ、推定ポイント周辺をきめ細かく探索したものの5月24日は発見には至りませんでした。
1982年5月25日、捜索範囲を拡大、沈船反応を捉えよ
5月25日も捜索を継続、探索範囲を拡大しての大捜索となりました。
午前中は発見に至りませんでしたが、昼過ぎに現場が慌ただしくなります。
「野村丸!沈船反応発見!」
野村丸の魚群探知機・スキャニングソナーに明らかに海底とは異なる反応が映りました。またその反応も通常の沈船とは全く別の反応でした。
野村丸の乗組員曰く「通常、数百トンから数千トン級の沈船反応は鋭くとがった三角形のような出方をしますが、この反応は逆にタマゴ型になっていて極めて大きい反応です。こんなの初めてみました!」とのこと。
至急海工丸を呼び、到着するまで何度もその反応の上を通り、沈船の大きさや高さ、深度などのデータを収集し続けました。
また到着した海工丸がサイドルッキングソナーでさらに詳細を測定します。
サイドルッキングソナー画像の左上から右下にかけて反応があり、測定したデータを分析した結果、戦艦大和と思しき物体は大きく2つに割れており、長さ180mと60mに分裂して海底に沈んでいることが分かりました。
また影となっている部分から高さや形状を推測することができます。こうして海底に沈んでいる様子を推測した模型なども後日作られました。
1982年5月25日(続)、ビデオカメラで海底の大物を撮影せよ
こうして見つけた「海底の大きな何か」、北緯30度43.17分、東経128度04.00分がそのポイントです。
いよいよ海工丸に積まれたビデオカメラを投入し、その姿に迫ります。しかしそこは水深340m、潮の流れも大きくカメラをうまく着底させるには相当な技術が必要です。さらにこの時代には水中ドローンのような機器もないため、水中カメラ単体で海底で移動させることも向きをコントロールすることもできませんでした。
ここで活用されたフルノ機器が野村丸に搭載されていた潮流計、その名の通り、海中の潮の流れを超音波で測定する機器です。この潮流データを参考に野村丸は海工丸を誘導し、潮や風の影響でカメラが別のポイントに行ってしまわないようシビアな作業が行われました。用意した水中カメラは複数台あったものの試行錯誤を繰り返す中でカメラ本体やケーブルが漏水し破損するなどかなりの難作業だったようです。
ついにカメラが海底へ、付近の沈殿物が舞い上がります。数秒後カメラの視界がひらけた先には艦の一部が映し出されました。
船上の全員が「ヤッタ!」と声をあげ、大きな拍手が沸き起こりました。
カメラの故障が相次ぐ中、最後のカメラでようやく良いポイントに降下することができたそうですが、数枚の写真や映像を撮ったのみにとどまりました。この時は大和と断定するまでの情報は得られず一旦引き上げることとなります。ですが、第3次探索で収集したデータは次の調査に大いなる望みを繋ぐ貴重なものとなりました。
第4次探索
1985年7月30日、戦艦大和を発見せよ
それから3年後の1985年、第4次探索が企画されました。戦後40年目の節目ということもあり、「海の墓標委員会」が組織され、より本格的調査が行われることとなります。フルノからは前回参加の笹倉氏・葉室氏・岡本氏と新たに遠藤氏の4名が第4次探索に参加しました。
第4次探索でのフルノのミッションは
・3年前に行われた調査で示した沈没位置を再確認すること
・形状や沈没状況、そして海底地形などを事前調査すること
でした。
そこで活躍したのが調査船 新日丸に搭載された新たなソナー"三次元ソナー HS-100"でした。この機器は海底地形探査装置と呼ばれ、文字通り海底の地形や沈没物を探知し、立体的にかつ精密に映像として表示するための機器です。1983年に開発が始まり1985年に1号機が出来上がったばかりの当時の最新機器でした。
さらにはるばるスコットランドから有人海底探査船「パイセスII」が導入され、万全の布陣で前回のポイントを目指します。
改めて北緯30度43.17分、東経128度04.00分のポイントにおいて三次元ソナーで海底の様子を探索します。そこで映し出された映像には確かに340mの海底で眠る船体を確認することができます。
さらにその船体の幅、高さ、長さはもちろん、その形状、さらには沈座状況なども三次元で捉えることに成功しました。また船体が2つに割れていることも改めて確認することができ、前回の調査から作られた沈没のイメージ図より正確な情報を得ることできました。
改めて艦影を確認したのち、いよいよ有人海底探査船による調査が始まりました。潜水から30分かけて340mの海底まで探査船が沈降していきます。潜水から数時間、最初に調査されたのは艦尾付近でスクリュー付きシャフト3本とシャフト1本などが発見されました。また船体がひっくり返っていることも判明しました。大和のスクリューは4本でしたが、1本は引きちぎられ、スクリューも大きくねじれていました。
少しずつ、この大きな沈没物が戦艦大和であるという確証に近づいていきます。
1985年7月31日、戦艦大和発見
前日7月30日の潜航を終えたものの、大和と確定するための決定的な情報はまだ得られずにいました。そして7月31日、2度目の潜航を実施。その日は台風の影響で大きく海面がうねり、潜水艇も潮でかなり流されたとのこと。前日とは異なるポイントで探索を開始しました。
そうしてしばらく探索すると巨大な煙突状の物体が横たわっているのを発見しました。メジャーを持って潜航していた「パイセスII」がその直径を測定したところ46センチ、大和の主砲弾でした。さらに発見は続きます。木材を敷き詰めた甲板、アンカー・チェーン、そして日章旗掲揚ポール、どれも大和独特の特徴を持つものです。
そして最後に見つかったのは"菊花紋章"、船首に取り付けられたその菊の紋章はまさに戦艦大和のシンボルでした。この日ついに、第三次探索時にソナーなどの超音波機器で探知された海底の巨大な沈没物は"戦艦大和"であると確定されました。
菊の紋章が発見されたとき、「パイセスII」のジョン艇長は「ルック! エンペラーズシンボル! ジス イズ ヤマト!」と大声で叫んだそう。潜水艇のライトに照らしだされた菊の紋章、その眩いばかりの金色の輝きが鮮烈に目に焼き付いたに違いありません。
こうして発見された戦艦大和。1945年4月7日の沈没から40年後のことでした。それは戦後40年の鎮魂のための探索でした。水線長256メートル、その巨大な鉄の塊は今も水深340メートルの暗い海に眠っています。
執筆 高津 みなと
資料提供 岡本 幸雄(フルノOB)、大和ミュージアム