眩暈(めまい)を起こしている学校
前回は「遊び」としての「眩暈(めまい)」が社会全体を侵しているということについて述べた。
この「眩暈(めまい)」はすべてのものを巻き込んでいく。
もっと楽しく!
もっとおもしろく!
もっと満足できるように!
もっと…もっと…もっと…
際限なく続く「眩暈(めまい)」地獄だ。
社会がこの構図に陥っている。
それはもちろん学校も同様だ。
さて、今回は学校教育にスポットライトを当てて
学校教育を蝕んでいる「眩暈(めまい)」についてまとめていきたいと思う。
1 学校の中に存在する「遊び」とは?
「楽しい学習にするにはどうすればよいのだろうか?」
教師は子どもたちが楽しく学びを進めていくために様々な試行錯誤を重ねてきた。
「楽しい学習」には必ず「遊び」が存在する。
ロジェカイヨワ は「遊び」を4つに分類した。
その4つとは「競争・偶然・模擬・眩暈」である。
子どもたちを夢中にさせるためにはこの4つをいかに活動に組み込んでいくかが大切になってくる。
(1) 学校の中の「競争」の遊び
体育の時間にチームに分かれ、得点を競い合う。
これも「競争の遊び」だ。
運動会で「紅組・白組」に分かれるのも競争。
入試で得点を競わせるのもすべて「競争の遊び」である。
教室にはってある名簿。
何かができたら名簿に1枚シールをはる。
このような取り組みを見たことがあるだろう。
これも「競争の遊び」だ。
(2) 学校の中の「偶然」の遊び
「偶然」とは予測不可能なものを楽しむ遊びである。
先ほどの「競争」とは違い、どんなに努力したり練習をしても勝ち負けに直結しないという特徴がある。
「おみくじ」「すごろく」「抽選」など偶然が生み出す楽しさだ。
子どもたちはこの遊びが大好きだ。
この偶然性の遊びを利用して授業を構成をすることはよくある。
一番わかりやすいのはくじ引きによる席替えだ。
誰が何を引くか?その偶然性が子どもたちを引きつける。
子どもたちの名前が書かれたネームカードをシャッフルする。
引かれたネームカードに書かれている子に指名をする。
それも「偶然の遊び」の要素がある。
授業でよく使われる「挙手指名」
これも子どもたちにとっては「偶然の遊び」の要素がある。
先生が自分を指名してくれるか?
どこで指名されるかわからない。そういうワクワク感がある。
年齢が低い子どもたちが「ハイ!ハイ!」と手をあげるのは
子どもたちが「偶然+競争」の遊びに興じているからだろう。
(3) 学校の中の「模擬」の遊び
「模擬(模倣)」遊びとは「真似・模倣をともなう遊び」
すなわち自分が真似をして何かになりきったりする遊びのことである。
自分を何かの中に入り込ませていくことで楽しむ遊びだ。
子どもたちはこの遊びが大好きだ。
だから、この「模擬」の要素は教育活動でもしばしば用いられる。
体育の学習。
「動物になりきる」学習は低学年の子どもたちは大好きだ。
国語の学習。
「物語」を劇化することで読み取りを深めていく実践もある。
ディベートはそれぞれに役割を与えることで思考の深まりを楽しむ学習である。
生活科ではお店屋さんごっこをするし、
道徳では「ロールプレイ」と称してそれぞれの登場人物の役割を演じさせて心情をつかみとるきっかけにしたりする。
学習発表会や学芸会で子どもたちが劇をやりたがるのもこのためである。
このように「何かになりきる遊び(模擬)」を授業に取り入れている実践は数多くあることがわかるだろう。
2 「眩暈」が支配する学級経営
カイヨワがあげる4つ目の遊び「眩暈」
「眩暈」とは
「すごいスピード」「ぐるぐる回転する」
「高さ」「バランス」「ひやりとする刺激的なもの」
のように「ルール」も「意志」も否定される遊びだ。
遊園地に人が集まるのは、この「眩暈」に夢中になるからだ。
前記事でも書いたが、この「眩暈」遊びの特徴は
「加速」である。
・もっとはやく!
・もっと高く!
・もっとスリルを!
・もっと刺激を!
というように「もっと!」「もっと!」と欲求が増大していく。
この「眩暈」を利用して学級経営をすること。
それを私は
「眩暈型学級経営」と呼んでいる。
この学級経営は危険である。
しかし、我々教師はこの構図にしばしばはまりこんでしまうことがあるのだ。
(1)「もっと!」「もっと!」が加速する教室
「眩暈型学級経営」とは「眩暈」をうまく利用して学級を動かしていく。
「眩暈」はすべての遊びを加速させていく。
例えば「競争」と「眩暈」が組み合わさると競争が激化していく。
・もっとよい点数を!
・もっといい記録を!
・もっとお金を!
というように際限なく競争を加速させていく。
受験戦争による過度の競争が「上下関係」「もつもの・もたざるもの」という構図を生み出していく。
「もっと上に!」「もっと豊かに!」
このような構造にはまりこんでいくのだ。
公教育の世界は基本的に「平等」「均質」を基本としている。
だから、学校内においてこのような過度な「競争」が起きたらブレーキがかかる。
「頭ワリー」
「びんぼうにん!」
そんなことを声に出したら即指導対象になる。
(指導されない陰湿ないじめもあるが)
差別やいじめにはある程度のブレーキがかかる。
しかし、一方でブレーキがかかりづらい「眩暈」にとらわれがちだ。
ブレーキがかかりづらい「眩暈」とは何か?
それは「正義」「優しさ」の名のものとに行われる「眩暈」である。
(2)優しさの名の下に加速する「眩暈型」学級経営
優しさの名の下に加速する「眩暈」とは何か?
それは
・もっとわかりやすく
・みんなができるように
・もっとていねいに
・もっとおもしろく
という教師の善意のもと加速する「もっともっと」合戦だ。
これらは一見とてもすてきなものに見える。
教師が子どもたちに
「もっとわかりやすく」
「もっと子どもたちが楽しめるように」
と考えることの何が悪いのだ!?
とお怒りになる人もいるだろう。
確かにその通りだ。しかし、ここではあえて言わせてもらう。
この「もっともっと」合戦という「眩暈(めまい)」を起こしている教師のもとで
子どもたちは育たない。
なぜなら、それは「ひなが口を開けて親鳥の餌を待つ」構図と同じだからだ。
口を開けていればおいしいえさ(楽しい学習)が手に入る。
そのような中で生きている子どもたち。
それをかしこくなっていると言えるだろうか?
教師が「もっとわかりやすく!」「もっとていねいに!」「もっとおもしろく!」
とがんばればがんばるほど、子どもたちは待ちの姿勢になる。
主体的とは程遠い、受け身の学びだ。
それなのに、多くの教師はこの構図から抜け出せない。
(3)なぜ「もっと!」が加速するのか?
「もっと楽しく!」
「もっとおもしろく!」
「もっとていねいに!」
「みんながわかるように!」
この「もっともっと」合戦が加速するのはなぜなのだろうか?
それには2つの理由がある。
1つ目の理由は
教師と子どもは互いの「眩暈(めまい)」を貪り合う関係になりがちだ
ということ。
2つ目の理由は
人は慣れてしまう生き物だ
ということだ。
①「眩暈」を貪り合う関係性
教師は常に
「もっと子どもたちを喜ばせてあげたい」
と願っている。
そして、子どもたちが喜ぶ顔を見ることに生きがいを感じている。
これ自体は別に悪いことではない。
教師がこのような気持ちをもつことはとても大切だ。
しかし、この思いが肥大しすぎるとまずいことになる。
子どもたちを引きつけるためにおもしろいことをする教師がいるとしよう。
この教師がひょうきんなことをすることによって子どもたちは笑う。
この「笑い」がその教師にとっては原動力となる。
この達成感が
「次は今回よりももっとおもしろいことをしよう」という行動を促していく。
これが「大人の眩暈」である。
これは子どもの側から見ても同じだ。
先生がおもしろいことを提供してくれる。
それによって子どもたちはとてもうれしくなる。
それが
「先生!もっとおもしろいことして!」
となっていく。
これが「子どもの眩暈」である。
教師は自分がしたことによって子どもたちが喜ぶ姿を見てうれしくなる。
子どもたちは先生がしてくれたことに熱狂し「もっと!」となる。
これが「教師と子どもが互いの眩暈を貪り合う関係」となる。
お互いがお互いを求め合い、盛り上がりを加速させていく。
これは一見すてきなことのように見えるだろう。
しかし、そうはいかない。
人間は同じ刺激で満足できない生き物なのだ。
その刺激はいつか「当たり前」となり「飽き」へとつながっていく。
それにはまり込んだ時、この眩暈の加速が関係性を崩していくことになる。
②「慣れ」が「眩暈(めまい)」を加速させる
どんなに熱狂してもいつか飽きていく。
人はそういうものだ。
どんなに教師が「楽しいこと」「おもしろいこと」を提供しても、それに対する喜びは継続しない。
あきると教師はまた次の手を打つことにする。
もっとおもしろく、もっと子どもたちを引きつけることはできないか?
そう考える。
このように「もっと楽しく」「もっとおもしろく」が加速していく。
これが「眩暈(めまい)」が加速する正体だ。
この連鎖は長くは続かない。
どんなに教師が努力してもその刺激に慣れて飽きてしまう。
この構図に陥ると、普通のことでは満足できなくなる。
その時、子どもたちは
「つまらない」
「おもしろくない」
と言い出すのだ。
与えられることに慣れた子どもたち。
刺激を十分に与えられない教師。
このような状況に陥ると
「眩暈(めまい)」によって関係性が崩れていくことになる。
(つづく)
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