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クライマーズ・ハイ|横山秀夫

クライマーズ・ハイを読みました。

読み終えて、これは傑作だ、と思いました。

題材は、1985年御巣鷹山の日航機墜落事故。
地元記者の葛藤、混乱、闘いを描きながら、家族との軋轢、部下の事故死、同僚の謎の言葉のミステリー、そして十七年後の衝立岩への登攀、といくつもの要素が絡まり合います。緊張感のある展開と、複雑な要素が紐解かれていく結末は圧巻で、読了後は清々しく山登りをしたかのような爽快感がありました。圧倒的な熱量と緻密さがなければ描けない物語だと思います。

日航機事故の悲惨さ、命を伝えるということ、ジャーナリズムと、この本が訴えかけてくるものはたくさんあります。

そのなかで私はこの本は『1人の人間が自分の信念と人とを信じられるようになるまでの物語』だと感じました。

信じることができない主人公・悠木

主人公である悠木(40歳)は猜疑心の強い人物です。
人間関係に受け身であり、好意を寄せてくれる相手すら警戒して疑って、人を好きにならないようにしています。
また、臆病者でカッとなりやすい性質もあり、作中では幾度となく怒鳴る場面が出てきます。それこそ人が変わったように怒鳴るのです。

対人関係に過敏で自己制御できない様子は、父が蒸発し母の愛情にも欠けて過ごした幼少期の影響が出ているものと思われます。
こうした悠木の性質が最も顕著に出てしまうのが、息子・淳に対してです。悠木は淳が自分に向ける好意に戸惑い、時には手も上げてしまいます。
そうしてすぐに後悔するのです。

本当は、悠木はとても優しく、誠実であろうとする人物です。だからこそ自分のした行いにいつも苦しみます。人を疑う自分を責め、人を利用する自分を責め、言葉足らずな自分を責めます。

 ありがとう。
 そのひと言が言えたなら、この先ずっと、誇れる自分でいられたろうに。同じ場面を与えられることは二度とない。その一瞬一瞬に、人の生きざまは決まるのだ。

『クライマーズ・ハイ』P297

優しく誠実であるのに、上手に生きられない無器用さ。悠木の抱えるもどかしさは読者にも伝わります。

対して、悠木を囲む人々は魅力的に描かれます。
自分の信じるものを守り貫く佐山、悠木に屈託ない親しみを見せる安西、そして安西の息子燐太郎。

そんな彼らは悠木の本質を見てくれています。そのことは悠木と読者への救いになっていると思います。

山という場所

読み進めながら、ふと思ったことがあります。

それは、1985年の日航機事故に翻弄される新聞社の様子をメインとしつつも、十七年後の悠木が衝立岩に登攀する場面をたびたび差し込ませる構成についてです。

編集デスクとして事故に当たることと、山をリンクさせた理由はなんでしょうか。

本を読んでいても、登攀の描写の臨場感には驚かされたものです。お尻が浮くようなヒヤリとした緊張感がずっとありました。世界最大の航空機事故に接した緊張感とリンクさせているのかもしれませんが、それだけではないのだろうと思いました。

ここで重要なのは、山とはどういう場所なのか、ということだと思います。

作中で燐太郎はこう言っています。

「ひょっとしたらこれがこの世で最後の会話になる。無意識にそう思っているからですよ。山って、そういう場所ですから」

『クライマーズ・ハイ』P307

山とは、死の淵に自ら立つ場所です。
だからこそ、見栄も外聞も関係なく、正直になれる場所でもあるのです。

日航機事故の乗客が墜落する間際に書いた遺書を読む場面があります。家族への愛や感謝が書かれた遺書です。それを読んだ悠木は自分はその時このようなものを書けるだろうかと思うのですが、山での悠木は本当に素直に自分と向き合うことが出来ます。

作中における山は、悠木が自分と人を信じるための場所として描かれているように思います。

実はアンザイレンという言葉を、この本で初めて知りました。
お互いにザイルを繋ぎ合って滑落に備え、命を支え合うことのようですね。

誰も信じられず好きになれなかった悠木が、燐太郎とアンザイレンをして衝立岩を登る。これは悠木の変化を表す、象徴的な描写だと思います。

自分のための決断

もう一つ考察したいのは、悠木はなぜ彩子の投稿を載せたのか、という点です。

彩子は父の死、最愛の従兄弟の死が、報道では軽んじられていると感じていました。常々思っていたその疑念が、日航機事故が連日大きく報道されるなかで膨らんでいったのでしょう。命には軽いもの重いもの小さいもの大きいものがあるという彩子の意見はメディアの本質を突いていると、悠木は思います。

 どの命も等価だと口先で言いつつ、メディアが人を選別し、等級化し、命の重い軽いを決めつけ、その価値観を世の中に押しつけてきた。

『クライマーズ・ハイ』P372

これは、たしかにその通りなのでしょう。
ですが彩子の投稿はあのときに載せなければいけない投稿だとも思えないのです。特に最後の4行は遺族の感情を思うとどうしたって余分です。しかし悠木は全文を掲載する決断をします。

これは投稿の正当性以上に、悠木の、かつて自死のように亡くなった部下への個人的な償いの面が大きいように感じました。小さな報道も大きくセンセーショナルな報道も、命を伝えるという面では不誠実なのではないか。新聞紙としての立場よりもそんな自分の信念に従った場面とも言えます。
そして投稿は周りの反対を受けつつも最終的には社内みんなで協力して掲載されます。

悠木は彩子を利用してしまったことに気づきますが、自分の決断を悔いてはいません。悠木が自分の信念で生きるということの一歩を踏み出した瞬間だったのだと思います。

他人の山を下りて自分の山を登る

「下りるために登る」は、作中でも特に印象的な言葉です。

ここでの「下りる」は、他人の山を歩くこと、自分を偽ることから下りるということかもしれません。そして次は自分自身の山を登るのです。

悠木は下りない選択をしたと言うけれど、あの投稿を載せると決断したとき、他人軸の人生を下りることが出来たのではないでしょうか。
親や育った環境への屈折も、そのために息子に壁を作っていたのも、後輩への後悔も、どっちつかずの仕事ぶりも、他人軸の生き方だったと思います。

自分の人生を上だけ見てただ登り続けるというのは悠木が自分自身でつかんだものです。自分で選んだものです。それならば、クライマーズ・ハイもきっと怖くないでしょう。

山にはいなくとも、私たちはいつも最後の一瞬にいる可能性があります。自分を信じること、一緒に歩む相手を信じること。
人生が山であったとしたら私もぜひそうありたい、と願っています。



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