積読が分からない。
出戻りオタクの吉村です。
そしてまた『出戻り読書家』の吉村でもあります。
読書ってイイですね。
久々に漕ぎ出した本の大海が実に魅力的で、水を得た魚のようにぐいぐい読み泳ぐ毎日です。
いまではSNSやブログなんかで、先をゆく読書家のみなさまのオススメ本を知るという技も会得し、読む本に困りません。読みたい本が泉の如く溢れ出るという不思議体験の真っただ中にいます。
というわけで、夜な夜な次に読む本を物色するのが日課となっているのですが、そんななかでどうもよく目にする単語があることに気づきました。
『積読』です。
はて。
ツンドク、とは?
積読とのなれそめ
はじめて「積読」という単語を見たのは、実はもう数年前。
だれかのSNSでの投稿でした。
さら~っと読んでいたら「積読」の文字で目が止まる。
「積読が増えていく~。」とのこと。
つ、ん、ど、く?
なんか、ひっかかる。
こんな単語あったんだ?
読みたいけど読めないでいる本、という意味合いでいいのかしら。
「読みたいけど読めないでいる本が増えていく~。」という言い回しでは、いけないのかしら。
なぜか「積読」にモヤモヤする。
読書家の間ではそういう単語が流通しているのかな。
プログラマーがプログラミング言語をあたりまえに使うように、読書家たちには読書家言語があるのだろう。きっと。
でもなんか、鼻につくかんじがする。
私はもはや読書家とは自称できそうにもない生活だったので、積読という単語によってその隔たりを決定的にされたようで、妙な嫌悪感を覚えたのだと思います。
この時点での私の積読に対するイメージはこのようなかんじです。
・読書家同士でのみ通じる符号
→あえて「積読」と表現することで読書家であることをアピールする
・(積読してある写真も一緒に投稿されている場合)実際には中を読む労力を費やしていないにもかかわらず、こういった物事に関心があることをアピールできる
→効率よく見識が広いように見せる方法なのか
積読にある種のマウンティングめいたものを抱きつつも、別に追及するわけでもなく、私と積読は数年後に再会するのでした。
積読のなりたち
数年後のいま、ことあるごとに目にする「積読」の文字。
みんなこぞって積読しているのね。
「積読」っていつからそんなに市民権を得たの?
っていうか、いつからある言葉なの?
という疑問がむくむくと沸きました。
私はですね、SNS時代になってこねくりまわされて作られた言葉かと思ってたんです。これまた勝手に。
そこでようやく調べてみたところ、積読のなりたちって意外と古かったようで。
天下のWikipedia様によると、なんと明治時代には使われていたとのこと!
積読さん、あなたがそんな由緒ある言葉だなんて露も知らず・・・
積読のつかわれ方
積読の用例を見てみましょうか。
まったく初見のアカウントばかりを参照させていただきました、ありがとうございます。
ふむ。
用例を集めたら、なお、混乱してきました。
つんどくところ
用例を見て思ったのですが、
物理的に、どこに? どのように?
という問題があるような気がします。
というのも、数十冊、数百冊の積読がある方が散見され、積読とは私の想像よりもはるかに規模の大きいもののようだったからです。
しかしそれらの積読は、実際にどう積まれているのでしょうか。
我が家にはそんなに大量の本を積み上げて置くスペースはありません。数百とかって・・・本の魔窟にならないかしら?
そこで、つんどく方法について簡単にパターン分けしてみました。
①実際に平積みしてる
一番ポピュラーな積読。机とか棚とかに数冊積み上げる、というシチュエーションが一般的でしょうか。この方法においての猛者の方々は家の中に本を平積みするスペースがよほどあるのだと思います。そしてその場所はなにか(猫やら子供やら)に崩されるおそれが少ないのでしょう。
②平積みはせずに手に取りやすいところに並べて置くなどしてる
積まない方式ですね。単なる蔵書との区別が曖昧になりますが、手に取りやすいところに置くこと、完全なる書庫に入れてしまわないことなどが重要になるかと思います。
③電子積読してる
なんと。でもこのパターンもわりとありました。とりあえず購入しておく、そしてそれを読み終わらないうちにまた購入する、という仕組みさえ満たせば、もはや物理的につんどく必要はないようです。
なるほど。
つんどく場所を案じていましたが、
『積読というのは概念でもあって、すべての積読が物理的に平積みされているのではない』
という結論に達しました。
インテリアとしてつんどく
『積読は概念でもある』と分かった一方で、『積読は蔵書のうちの未読の本を指す概念である』とは言いきれないことも分かってきました。
これまで私にとって本は、情報媒体でしかありませんでした。本に物質としての価値を求めることがあまりなかったように思います。
しかし世のなかには、本そのもの、物質としての本、が好きな方も一定数いるのだと感じました。
そう思うと、読む読まないの基準では測れない『永遠の積読』もあり得ます。
背表紙を眺めるだけで心が満たされる、といったものです。
もしくは、心の指針になるような本を常に目の届くところに置き自分の在り方を忘れないようにする、という目的もありそうです。
つんどくためには
さて、積読は読書家のものである、と思っていたのですが、これはちょっとちがいました。
というのも、積読のうえで『読書家であること』は必須の条件ではなかったからです。
積読に必須な条件は『本を所有すること』でした。
これこそが、私と積読を隔ててきた壁です。
私は人生のうちで何度か読書家と言っても差し支えないような時期があり、そのときはたしかに本をむさぼり読んでいました。しかし、そのいずれのときも私の読書体験は図書館とともにありました。
私にとって本は、期限付きの情報媒体です。
つんでおいたら内容を知ることなく手元から離れていくのです。
だからつんでおくなんて発想は、まったくありませんでした。
しかしSNSで読みたい本を探す方法を実践しはじめてから、
図書館にある本から読みたいもの探す
ことよりも
読みたい本が図書館にあるか探す
ということが増えました。
すると、図書館の蔵書がすべての出版物を網羅しているわけではない、という当たり前の事実にようやく気づきました。
読みたい本が、図書館にない。
となると『購入』が選択肢にあがりますよね。
しかしここでも『絶版』という現実に突き当たることになります。
売ってないのです。
読みたい本が、読めない。
そういうことが起きるのだ。
このときの絶望といったら。
そもそも私が図書館にこだわっていた理由のひとつに、本を手元に置くとすぐに飽きてしまうのでは、という怖さがありました。
好きな子となんとなく両想いなことは分かっていたけど、そこから発展して、いつか飽きたり関係が壊れたりおざなりにしてしまったり、そんな日が来ることが怖くて、付き合えないでいる。そんな恋愛めいた怖さです。
だから図書館に都度戻して物理的な距離を保ち、そのことで本への憧れを維持したいと思っていました。
が、ようやく気づいたのです。
本との出会いはまた必ず訪れるとは限らない、ということを。
まさに、一期一会だということを。
だから積読は、本との一瞬の出会いをつかむ方法として、重宝されるのだと分かりました。
つまるところの積読
「積読ってなんか鼻につく!」と思っていたわけですが、本との出会いの切実さを思うと当初のマウンティングイメージはしぼんでいきました。
だって、つんどかないと、読めなくなるかもしれないもの!
そうしてつらつらと考えてみて、私の思う積読の最大のメリットは
『機会損失の回避』
という結論に落ち着きました。
その本との出会いはまたとないかもしれない。だから読む機会が永遠に失われることを回避したい。そういう想いで積むのかな、と。
また、積むこと(物理的にでも電子的にでも)で読書のタスクを可視化し、読み漏れを防ぐ効果も期待できそうです。
部屋のすみでしんしんと積みゆく本は、いろんなアレコレで忙しい私たちを、その存在感でもって、ぐいっと本の世界に引き戻してくれます。
いまでは積読とは、忙しい日々にありながらも本とのつながりを途切れされないようにする方法のひとつ、なのかなぁと思っています。
それにしてもおそろしく長いnoteになってしまって、驚いています。ここまで読まれた方、お疲れになりましたよね。お付き合いくださって本当にありがとうございます。
以下はちょっと余談です。
こちら、Twitterで見て「絶対これ私好きだ!」とピンときたものの、近隣の図書館3つをすべてまわっても蔵書がなく、小説では10年ぶりくらいに購入した本です。読みたいのですが、図書館で借りた本を優先して読んでしまうため、置かれています。
積んではない。置いてる。『置い読』です。
「置いとく」と「読(ドク)」では語のつながりが微妙かな。まぁいいか。
置い読ですが、ちょっと積読に近いことしてる気がします。
積読ってこーゆうこと?
圧がスゴイけど。
私が積読する日も近い。の、かもしれない。