仕事における個性の話。
個性って何だろう。
今の学生たちがどんな教育を受けているのか分からないが、自分が学生の頃は、一人一人が尊重されながら授業が進行することはあり得なかった。
いや、正確に言えば、クラスの中では教師のお気に入りの生徒だけが目立ち、それ以外が完全に背景になるということが常だった。
それが目立つのは色んな形があった。勉強ができればテストや模擬試験の順位発表で目立つし、スポーツができれば部活や大会で結果を残して目立つ。文化系だったり絵画やその他の技術で世間的に高い評価を得られればそれも目立つ。
だがそれが成し得るのはほんの一握りの学生たちだけで、それ以外の大多数は、可もなく不可もなく平凡なまま、特に目立つこともなく何となく日常が過ぎていく。それが、上にも書いたように背景になるということだ。
特に優れたスキルがあるわけではなく、ただ何となく勉強やスポーツを頑張りながらそこそこの成績を取って、特段誰からも表彰されるようなことはなく、そして何となく卒業していく。
就職活動はその最たるものだ。みんな同じような黒い髪にして同じような黒いスーツを身に纏う。面接試験では、どこかで聞いたような志望動機を話しながらどこかで聞いたような質疑応答をこなす。
そこに個性など無い。それが良いか悪いか別として、そういうものだと思っていた。こんなことを書いている私も、当然この後者の「背景」と化していた平凡な人間だ。
だが、社会に出ると、長く働けば働くほど「個性」が滲み出てくる。働き始めはそれに気付かないかもしれない。しかし、同じ会社や同じ職業を続けているともう気にしないで居られなくなる。それほど、至る所に個性が現れてくるのだ。それは優秀か否かに関わらず、必ずと言っていいほど誰にでもそれがプンプンと匂ってくる。
たとえ単純な作業であったとしても、どこかにその匂いは漂う。資料の作り方一つとってもそうだ。このフォント、この罫線、この色使い、この図形。
前任者の作ったドキュメントをコピーしてやり過ごせることもあるかもしれない。だが、それは最初のうちだけで、だんだんと自分の個性を出さなければならない場面がある。出そうとしなくても、勝手に出してくる人も居る。
「どうしてこんなやり方にしたのだ」
もし誰かの成果物にそう思ってしまったのなら、それは自分とその人の個性がぶつかり合っていることを意味している。内心、その人の個性にケチをつけているのだ。
あるいは、「こんな素晴らしい表現があるのか」
そう思うことも、やはり個性がぶつかっている。自分の個性が相手の個性に服従した瞬間だ。
そこで自信喪失する人も居るかもしれない。学生時代なら「俺はアイツみたいにはなれないよ」と不貞腐れていればよかったかもしれないが、社会ではそうさせてくれない。
とにかく結果を出さなければならないこともある。そこに優劣の差がはっきりあったとしても、改善して取り入れて妥協して、そうやって個性を修正していく必要がある。なぜなら仕事というのは自分のためではなく誰かのためだからだ。自分一人のためなら無気力で何もしないでも構わないが、会社から社会から給料を貰っている以上、その要求に応えていく必要があるのだ。
あれだけ個性など蔑ろにされていた学生時代と異なり、そういうふうに、社会人は個性を求められる。そしてその個性を潰せと言われて、誰かの個性と喧嘩をする。仕事とは、極論を言えばそのような繰り返しなのだと思う。
そして面白いことに(面白くないけど)、会社で偉くなればなるほど、社会で認められればられるほど、その個性がさらに際立つ。
正直「くだらない」と客観的に思えるような些細な意見も、その下に位置する人たちを右に左に動かしてしまうことになる。ちょっと口出ししてみたアイデアも、大した内容ではない指摘も、実りの無い小言も、「その人」が言うことに意味を持ってしまう。発言力といっていい。その個性は、偉くなればなるほど、誰にも潰せないほどに肥大化していく。
個性って何だろう。
改めて考えてみると、随分と不思議なものだなと思う。
そういうわけで個性を隠しながら気付かぬうちに漏れ出しながら、そして誰かの個性と折り合いをつけながら、今日も私は働いている。ビバ、サラリーマン。つづく。