執着しないという執着の話。
夢を見た。
かのキング牧師の名演説で有名なフレーズに登場するほうの夢ではない。寝ている時に見るほうの夢だ。
そういう夢の話を誰かに教えて聞いてもらうことは、正直私は好まないのだけれど、気になったので概要だけ書く。
夢の詳細は割愛する。そこでの私は、あらゆることをやり残していた。そしてその状態に苦しんでいた。「あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ、でも全部はできない、どうしよう」そういう葛藤や戸惑い、焦りなどのような感情に苛まされていた。
夢から醒めて、思った。
すごく、分かる。共感する。
夢で見たようなシーンを実際に体験したことはないはずだが、もしそのような状況に陥ったら、間違いなく私は苦しむ。あれもこれもやり残して、それを抱えたままで過ごすというのが自分にとって非常にストレスを感じるのだ。
仕事もそう。たとえば、Aというプロジェクトを担当していて、色々タスクはあるけれど、関係者に確認しないと自分のタスクが進まない問題があるとする。
とはいえ、Aというプロジェクトはまだ納期まで時間があるから、関係者も急いで確認する必要は無いと考えている。そういう状況でも、とっとと確認してもらいたいと私は思ってしまう。
なぜなら、私は自分のタスクに集中したいからだ。自分がこなすタスクの主導権はこちらで握っていたい。
この業界の言葉なのか、一般的な言葉なのか、あるいは私の働いてきた環境特有の言葉なのか分からないが、「誰にボールがあるか」という言い方をする。
「ボールを持っている」ということは、「その人に意思決定または行動する必要があって、そこがボトルネックになって仕事が進まない」ということを意味する。
その仕事がもし今ボールを持っている人のところで止まっているのであれば、早く次の人にボールを渡せ、ということになる。
だから、Aプロジェクトに話を戻すなら、担当するタスクが私のところで止まっているのが嫌なので、すぐさま関係者に確認してもらうよう依頼する。ただし実際にすぐに確認してもらいたいとは思っていない。「あの件どうなった?」と聞かれても「確認を依頼しました。(今私がどうこうできる話ではないです)」という状態にしたい。
私は、自分がその「ボールを持っている」状態が嫌なのだ。持っているボールは早く手放したい。自分のせいで物事が進まないというのが嫌なのだ。
もちろん、自分一人で物事を進められる仕事であれば幾らでもボールを持っていても平気だ。しかし、こと他人が関与する場面で自分がボールを持つ、つまり、「自分のせいで誰かを待たせている」というのが受け入れられない。
夢では、あれもこれもやり残していたが、そのどれもが誰かに迷惑がかかることだった。そういう状況に身を置いて、ハッと夢から醒めた。脂汗をかいていた。
思うに、私は執着したくないという思いが強すぎるあまり、それに執着しているようにも感じる。
その根底にあるのは、他人に迷惑をかけないようにしなさいと小さな頃から言われて育ったその呪縛も少なからずある。が、そればかりではなく、結局は人間不信があるのかなと思う。人を楽観的に見られないというか。
きっとこの人は自分のことを快く思っていない。いつか自分を嫌いになる。いつか裏切る。どんなに親しい友人知人であっても、私はそれを心のどこかで想像してしまう。そういう恐れみたいなものを常に抱えていることで、極力他人と深いところで交わることを避けているのかもしれない。
夢なんていうファジーでファンシーな話から随分と暗いトーンに変わってしまったが、今回のことで自分の中にある執着がまた少し見えてきた。
それにしても、執着しないようにと考えることが執着になっていたなら、じゃあどうやって執着しないようにすればいいのだろう。まるで哲学問答のようだ。つづく。