手持ち無沙汰と見つめる時間の話。
妻の実家に、子供たちを連れて遊びに行き、泊まった時の話。
義実家(と言う呼び方が正しいのか分からないが)に来ると、少なからず手持ち無沙汰な時間というのが生まれる。言い換えれば「自由な時間」なのかもしれない。
それは、義母がご飯を作ってくれたりする時間だったり、子供たちがおもちゃでそれぞれ遊んでいる時間だったり、妻が昼寝をしている時間だったり、私一人で「何をしたらいいんだこの時間は」とふと考えてしまうような時間のことだ。
中でも、その最たるものは「みんなはまだ寝ているけれど、私一人がめっちゃ早朝に目が覚めてしまった時」だ。
以前に記事でも書いたりしているが、私はかなりの早起きだ。普段、朝の3時ちょい過ぎにはもう目が覚める。4時には大体起きている。早起きというレベルではないのかもしれない。軽い睡眠障害が入ってんのかなというくらい変な時間に起きる。そういう時、自宅ではルーチンワークとして筋トレをしたり読書をしたり朝風呂に入ったりしている。
だが、義実家ではそういうこともしにくい。マンションだし、我々家族のために一部屋を借りさせてもらっているわけだし。一人だけ起きて家の中をフラフラするのもなんか気が引けるし、外に散歩に出かけるのもやりにくい。本でも持ってきていたら、寝室でそれを読みながら、みんなが起きるまで時間をつぶすということもできるだろう。しかし、読みたい本も無かったりすれば、まさに手持無沙汰としては最高レベルに達する。
したがって、そんな場合には、
ということをしている。
1.は、自分で記事を書くことと、記事を読んで繋がること、という2つの点において面白い。
自分で記事を書くと、私は、最初のほうは「どれを書こう」「何を書こう」と悩んでいたりしていたこともあったが、最近はあまり悩まない。「書きたいときに、書きたいことを書けばいいか」と思うようにしているからだ。
もちろん「毎日書くこと」という目標を掲げている人も居るし、それはそれで立派(というか単純にそういう熱意を続けられるのがすごい)と思う。しかし、自分としてはどちらかというと、フッと自分の頭の上に降りてきたテーマをガガガーッと書くほうが性に合っている気がしている。きっと「書きたい」という思いを文章にすることで、どこかしらで自分と向き合っているのかなと思う。自分を見つめる作業というか。「あっ、今これを表現したいんだな自分は」と確認しながらその任務を遂行するというか。
そういったわけで自己満足の域を出ず、読んでくださる方には大変申し訳ないのだけれども、私の書く文章は、テーマにも一貫性は無いし、レトリック的な技術も無いから、非常に読みにくいかもしれない。記事ごとに人格が変わって見えるかもしれない。けれども、現時点の note のプロフィールでも書いているように、思い浮かんだもの・体験したものを、このオッサンというフィルターを通して、出来る限り新鮮なうちに、生のままお届けしたいという気持ちがあるのだ。そんな生きたオッサン情報でも、読者の方に何か1ミクロンでも届く良いものがあれば幸い。
もう一つ。note を書いていると、ありがたいことに、色んな方が記事を見に来てくださっている。さらにはスキボタンまで押してくださることもある。お返しというか、可能な限りこちらも、読んでくださった方の記事を読みに行く。すると、読んでいて楽しいというか、文章の波長が合う方も多く、心地良い気分になるのだ。
note の良さは、自分で記事を書けば書くほど、自分としても「良いなぁ」と思える文章を書く人に会う機会が増えることだと思う。もちろん、読む専用の人も居ると思うので、無理に書くべきだとは思わないが、それでも自分と気の置けなそうな誰かが繋がる感覚は、やっぱり楽しい。
もしかしたら、note をやっていない方や批判的な方からすれば、そういうコミュニティや繋がりが「馴れ合い」や「内輪」に見えてしまうかもしれない。だが、そういう「気の合いそうな誰か」と集まることは、本来すっごく楽しいことなのだ。そして、恐らくだけれど、大体オープンな雰囲気がある。なので、気軽に読んだりスキボタンを押したりコメントを書けるような、そんな空気感があるように思う。
したがって、ちょっと乱暴に言ってしまえば、note という場は、最高の時間つぶしになる。めちゃくちゃ良い意味で。
ただ、そうは言っても、辺りもまだ暗い夜明け前にひたすら note で記事を読んだり書いたりしていると、さすがに目が疲れてくる。それに、スマホで長文の記事を書けば、当然に指も疲れる。
そうなると、上記の2.「子供を見つめる」の出番だ。
我が家には、2人の子供が居る。小学二年と、保育園の年中だ。まだ小さい。が、小さいながらも、日々その「自我」や影響力を増してきている。それぞれのエネルギーも凄まじいものがあるが、この二人が互いにケンカするとさらに凄いことになる。
最近では、「どちらかがふざけて、もう一方にちょっかいを出す」⇒「やられたほうがカチンと来て、やり返す」⇒「やり返した時の力が強すぎたり、大声だったりして、やり返されたほうが逆ギレする」⇒「結果二人とも大泣き」みたいなケースが多い。途中で、ケンカの仲裁に入ったり、再発防止の話し合いをしたりするが、あまり効果は無し。半ば彼らは楽しんでそれをやってしまうようで、親としてもほとほと疲れてしまう。
そんな彼らであっても、寝顔は穏やかで、何ともこちらが癒される。気持ち悪いので大っぴらに言いにくいが、子供の寝顔は、何時間でも見ていられる気がする。ちゃんと呼吸をして、寝息を立てて、生きている。そんな様子を見ていると、時間を忘れる。
子供という存在は本当に不思議だ。自分に似ているのに、似ていない。日に日に成長して、違う顔を見せる。どんどん出来ることが増えていく。その一方で、どんどんこちらの言うことを聞かなくなっていく。生意気に思うこともあるが、やっぱり可愛くて仕方がない。
あんまり書いても「で?」って感じなのでこの辺でやめておくが、私もかつては、親からそのような眼差しを向けられて育ってきたのかな、と思うと子供にもちゃんと向き合ってあげたいと思う。つい期待しすぎてキツく当たってしまうのを、やめなきゃな。彼の、彼女の意思をまず、尊重しないと。
寝顔を見ながらそんなことを思った。
ちなみに、ずっと見ていると、不意に子供が目を覚まして「うわっ」って顔をされることがある。そりゃそうだ。夜起きて、暗闇の中でオッサンが凝視してたら怖いわな。ごめん。私だったら絶叫してる。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?