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「助長」という言葉の意味の話。

タイトル通りなのだが、今読んでいる本で、「助長」という言葉について書かれていた。

それによれば、助長とは、現代では「悪い傾向を強める」といったような否定的な意味合いで使われることも多いが、そもそもの原典では少し違うという。元々は、「結果を出すことを焦った結果、余計なことをして事態を悪化させる」といった意味だったそう。

なるほど、調べてみる。

<原文>
 宋人有閔其苗之不長而揠之者,芒芒然歸,謂其人曰:『今日病矣!予助苗長矣!』其子趨而往視之,苗則槁矣!天下之不助苗長者寡矣。以爲無益而舍之者,不耘苗者也。助之長者,揠苗者也,非徒無益,而又害之。
孟子/公孫丑上

これだけだと、私のポンコツな頭では理解できない。というか、そもそも読めない。

というわけで、書き下し文と現代語訳の例を見つけることができたので、勝手ながら引用させていただく。今回の記事に関係あるところだけ抜粋。

<書き下し文>
 宋人にその苗の長ぜざるを閔えて(うれえて)、これを堰ける(ぬける)者あり。茫茫然として帰り、その人に謂いて曰く、今日は病れぬ(つかれぬ)、予(われ)苗を助けて長ぜしめたりと。その子趨りて往きてこれを視れば、苗は則ち枯れたり。天下の苗を助けて長ぜしめざる者は寡なし(すくなし)以て益無しと為してこれを舎つる(すつる)者は、苗をくさぎらざる者なり。これを助けて長ぜしむる者は、苗を堰く者なり。徒に益無きのみに非ず、而してまたこれを害なう(そこなう)と。

<現代語訳>
 宋国のある男が、苗の生育しないのを心配して、これをぐいっと引っ張った。疲れ果てて帰ってきて、家人に「今日は疲れた。苗を助けて伸ばしてやったから。」と言った。息子が走って行ってみると、苗は枯れていた。天下には(この宋人のように)苗をひっぱって無理に生長させようとするようなことをしない人はほんの僅かしかいない。これが作物に害があると知って、苗を捨てておく人は、田んぼの草取りもしない人である。苗を手助けしてこれを伸ばそうとする人は、苗を引き抜いてしまう人である。ただ利益がないばかりでなく、かえって苗に害を与えるだけである。
『孟子』の公孫丑章句:1の書き下し文と現代語訳

なるほど、たしかに余計なことをしている。苗の成長が遅いからと言って心配するあまり、自分で無理矢理その苗を引っ張って伸ばそうとしてしまったわけだ。そのようなことをすれば、当然苗がダメになって枯れてしまうと。

そして、それだけでは「まぁ当たり前だよね」という結論だけれど、その続きに、そうやって「苗を引っ張るのはダメ」だし、かと言ってその反対に「何もしないで雑草を生やしっぱなしにするのもダメ」と書いている。

良かれと思って余計なことをするのも良くないが、じゃあ放っておけばいいということでもないらしい。バランス感覚が大事なように見える。

・・・これ、何かに似ているな。

ああ、そうか、子育ても似たところがあるかもしれないと思った。

いくつかの記事にも書いているように、私は心配性で、子供に対しても過保護で過干渉な性質がある。本当は良くないと分かっているのに、つい口を出してしまう。息子や娘が道を踏み外さないように、失敗して傷つかないように、と、アレコレ気を回したり、茶々を入れてしまうのだ。

けれども、自分でトライしてエラーにぶつかり、さらに立ち上がってまたトライする、ということは子供の成長にとって圧倒的に大きな意味があるはずだ。余計な口出しや、必要以上のフォローなんていうものは、その機会を奪っていることに他ならない。

これぞ、原典にあるような「助けて長ぜしむる」つまり「助長」であるわけだ。

ここは、グッと我慢し、言いたいことがあっても抑えてみる。他方で、原典にもあるように、完全に放置もしない。手助けが必要なところを見計らって、必要なケアはしてあげる。

何とも難しいけれど、子供が自分で立って歩いていくための成長のためには、親としてそのバランス感覚でもって子供に接することは、きっと大事なことなんだろうと思う。

あくまで、本当に必要なことだけ。「左手は添えるだけ」的な。そんなことを思った。おしまい。

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