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ときどき考えるボクネンジン

ビチクソ感想文:『NHK「100分de名著」ブックス パスカル パンセ』(鹿島茂・NHK出版)

人間は考える葦である。有名なことばだ。教科書では「人間はもろくて弱い存在だけど、でも考えることができる」という意味だと教わる。だけどパンセを読み通すと印象が変わる。「人間は考えることができると傲っているが、もろくて弱い存在なんだから謙虚になれ」と読める。わたしはそちらのメッセージの方がしっくりきた。だが、もう一歩ふみ込んでみると、そこからさらに裏返る。「むしろ考えることができるからこそ、じぶんたちが弱くて脆くて悲惨な存在であることを理解することができる」となる。すると「考える葦」という言葉がさらにかがやく。本書を読んで、ああそうだったのかと思った。

考えることは悲惨なことだ、だからこそ考えることは偉大なことなんだというパスカル。

ぎりぎりの境地でヤセ我慢しているように感じる。武士は食わねど高楊枝。考えるなんてつらいことだらけなのに、ふんばってカッコつけている。つい考えてしまう人たちにとって、パスカルのこうした言葉はやさしく響くだろう。そうはいってもまじめな主張だなぁと思う。厳しさがある。硬派な感じだ。だけど、わたしはパスカルのこの「ぶったおれそうなところで人間の尊厳へ切り返すところ」(悲惨さをわかっているからこそ人間はエラいのだ!)が好きだ。じっさいにパンセを読むと、けっこうディスも激しいから、ヒップホップかなと思ったりもする。まぁヒップホップが何なのかは知らないのですが(まぁとくに知りたくもないのですが)。

じつをいうと、最近、ふと我に返って考えてしまうとき、思わず「悲惨だわ」とつぶやいてしまうことがある。不健全で不謹慎だなと思うのだが止められない。これはいったいなんだろうか。思い当たるフシはいろいろあって、それを数えあげては「やっぱり悲惨だわ」のつぶやきをくりかえしてしまう。これがウツというやつかと思うが、まがりなりにもこの年まで生きてこられた成果の副産物のようにも思うから、気持ちの置きどころに困る。無理して否定することもないし、反対に誇るべきなのかもしれないが、キツイときはキツイ。思考がぐるぐる止まらない。そんなとき「悲惨とわかっているからエラいんだ! レペゼン悲惨!」と居直りをススメてくれるパスカルの言葉にふれると、うれしくなっちゃうのが人情というやつじゃないですか!!

とはいえ、わたしも人間ができてないので、彼のような硬派な感じをキープできない。それでも、ときどき彼の言葉を思い出しては、ホッと息をついている。悲惨さは悲惨さとして、それでも生きていくしかないのだから、ジタバタあがいていこう。かれこれ3年くらいパンセが愛読書であるじぶんの結論である。

謙虚さや敬虔さへの矜持。虚勢。強がり。そのカッコよさ。不利な戦いに挑んでいるからこそ、にじみ出てくる佇まい。人間は神には決してかなわず、世の中はわからないことだらけだけど、ときどきは勇気をもって考えてみようとパスカルは訴えかける。

たしかに考えちゃう人は考えちゃうもんだ。だが一方で「行為の結果の捨離が神に近づくことだ」と古代インドの思想は語っている。つまり「考えなしに行動できるやつが最強」らしい。わかる。いまや世俗化したバガヴァッド・ギータの知恵が世の中にあふれている。それって「朴念仁になることが一番えらい」みたいに聞こえなくもない。そんなわけあるかい。これだからデリカシーのないやつは! このボクネンジン! と思ったりする。結論としてはバランスなのだろう。

考えすぎてしまうときは「考える悲惨さを知っているからこそエラい」とじぶんを褒めてあげよう。そして、考えないことも大事にしよう。なぜなら「葦」なりに考えてみたからこそ、考えないことの大切さが分かったんだから。

そんな感じがいいんじゃない? どうでしょう、パスカル先生。わたしは今日も健やかに生きています。わたしは無宗教なので、あなたのいう神様とはちがうかもしれませんが、なんとなく神さまに感謝したい気持ちです。

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