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「わかる」がわかりたい

ビチクソ感想文:『数学する精神 増補版 正しさの創造、美しさの発見』(加藤文元著・中公新書)

何かをわかるとはどういうことなのか。ちょっとヘンなことを言っていると自覚している。「生きているとはどういうことか」みたいな質問と変わらない。「わかる」「理解する」がわかりたい。そんなことより仕事に役立つハックの一つでも身に付けろと思う。

どうしてこんな疑問にこだわっているのか、動機を考えてみると、単純に世の中に納得できないことが多すぎるからだろう。わたしはわからない。だけどあの人はわかっている。それが許せないのかもしれない。身勝手な人間だ。あの人はわかっているというけど本当はわからないはずだ。だってわかるとは何なのかがそもそもわからないじゃないか。そんなことを言いたいのだ。気分的に。ヤバいやつである。

世の中の常識やある種の秩序にたいして反感があるのかもしれない。だけど、革命を起こしたいわけじゃないし、議論のちゃぶ台をひっくり返したいわけでもない。だれにも相手にされなくなるのはこわい。だから、わたしはただ勉強がしたいのだ。わからないことをわかりたいのだ。じゃあ素直にそういえばいいのに。ヤバいやつである。でもおれは嫌いじゃないよ、おまえのそういうとこ。うるせーよ。

わかるとは何なのか。反対にいえば、わからないとは何なのか、かもしれない。そろそろワケがわからないので、いきなりわたしの現時点の結論を書いてしまうと、わかるもわからないも、それは感覚の問題だと思っている。かんたんに言い直せば、「わかる」とは「わかる感じ」のこと。「わかった!」と感じることだ。だから「わかる」時点ではじつは「わかる」は客観的なものではないと思っている。わかる。相当あやしいことをいっているとじぶんでも思う。でも、わたしのなかにある「わかる」はそうで、それが他人と共有できる「わかる」なのかはわからない。それが「わかる」だと思っている。

いいかげんに本題に入ろう。どうして本書を手にとったか。ある映像がきっかけだった。「数とはなにか――IUT理論と数学の立ち位置」という番組を視聴して、加藤文元氏のことばに感動したからだった。彼は数学者であり、『宇宙と宇宙をつなぐ数学 IUT理論の衝撃』という本を書いた文筆家としても有名である。難解で知られる望月新一氏の宇宙際タイヒミュラー理論を素人にも「わかる」ようにイメージしやすく解説した同書は、その文章力もすばらしいが、著者と望月氏の学問をめぐる熱い青春譚としても逸品で、さわやかな読後感が残る快著だった。わたしはこの本だけで満足して、他の著作には手を出さないでいたが、彼がいった一言で、読書欲が爆発した。

「数学は時間をうまくあつかえない」と加藤氏は語った。どういうことか。わたしはベルクソンの時間論が好きで「数学は同時しかあつかえない」という有名なベルクソンの直観が数学を専門とする人たちからどう思われているのか、ずっと知りたいと思っていた。加藤文元氏はもちろんベルクソンを読んでいる。それだけでわたしは嬉しくなって加藤氏の他の著作もぜったい読もうと心に決めた。こんなことを言ってくれる数学者はたぶんこの世にいないと直観した。

本書『数学する精神』は数学者が数学における「正しさ」と「美しさ」について一般的な読者にもわかりやすく語った本だが、こう紹介すると、趣味的な、フェティッシュな印象を受けるかもしれない。全然ちがう。本書は「正しい」「美しい」とはなにかを数学者としての感覚から紐解こうとしている科学哲学的なエッセイであり、冒頭でいった「わかるとは何か」について光をあててくれる本だった。

思い切っていってしまうと(二度目)、正しさの根拠は正しい「感じ」にある。著者はその「感じ」をいくつか例を上げて、分類を試み、なんとか言語化しようとしている。「テオリアの正しさ」「オーパスの正しさ」「体幹的な正しさ」などなど。そして、いくつもの「正しさ」を照覧した後、最後には人間とは根本的に異なる機械(いまだったら人工知能)が導く「正しさ」や「美しさ」についても言及し、人間の感覚とは異なる「正しさ」「美しさ」とどのように向き合い、それがどう人間の「正しさ」「美しさ」に影響していくか、その未来をかいま見せてくれる。

「正しさ」も「美しさ」も「わかる」も、ある個人のひらめきと努力の末に宿るセンスなのだ。望月新一氏の宇宙際タイヒミュラー理論が正しいのかどうか、だれがどうやって「わかる」のかという話でもある。

ちょっと哲学的な話題を差しはさむと、数学的な実在はいわゆるイデアなのだろうか。この世の中に、あるいは世の中を超えた永遠の世界に、数学的な存在(三角形とか整数とか)はたしかにあるのだろうか。加藤氏はあえて答えていない。イデアは一般的な感覚からすると、ちょっとあやしい言葉だ。ふつうはしらんがなである。でもわたしとしては宗教的な世界観としてのイデアは尊重できるし、ある種の謙虚さを人間に強いるもので(他人に無理強いしなければ)好ましい概念だとも思う。でも、やっぱりわたしはイデアを実地に生きる人間ではないので、こう言いかえてしまいたい。イデアだろうがなんだろうが、そこにはある種の感じがある。そしてそれは正しさを感じさせ、美しさを感じさせ、わかると感じさせてくれる。あらかじめ実在した数学的な存在が理解(想起)されたのではなく、数学的なセンスを泥臭く追求する=「数学する」ことで、その感じが少しずつ拡張されてきたのが数学の歴史だったのではないか。

「わかる」ときの感覚はたのしい。その素朴さを味わいたい。でも、ここまで書いておいてなんだが、「わからない」というときにこそ、わたしは世界そのものに魅了されているとも感じる。

「わかる」と「わからない」を行ったり来たりしながら、感覚を磨いていく。信じて進んでいく。本書を読み終わった今、そんなイメージが湧いている。今だからこそわたしは数学に魅せられている。ちょっとずつ勉強し直してみたいと思った。


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