外見を褒めたい


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本屋のクローズで、女性の店員さんがシャッターを下ろす動きがすごく素敵だと感じた。

小柄な女性なのだが、半分まで下りたシャッターを少し手で下げ、足を引っかけて下までおろしていた。その動きに無駄がなく、「ガシャン!」と音を立てることもなく、軽やかな身のこなしだった。

慣れているからなのだろうか、そもそも体の使い方が上手いからなのだろうか、わからないが、すごくその身体性に魅力を感じた。

そういえば、人の見た目や身体について褒めるのは避けられていると思う。

まず、一歩間違えればセクハラになるから。そして、本人が気にしている特徴であれば、それは悪口になってしまうから。

身体を褒めるのには、大きなハードルがある。でも、このすごく魅力的な瞬間は、誰にも伝わることがなく消えてしまった。うまい伝え方はなかったのだろうか。

身体を褒めたいと思う時がある。それは相手のことをすごくいとおしく思っているときなんじゃないかと思う。でもそれは、恋人くらい親しくないと難しいのではないだろうか。

一方で、内面は褒めても良いことになっている。「まじめだ」「几帳面だ」「ユーモアがある」「やさしい」と平気で口にしているが、それはなぜだろう。

外見は、変えられない。性格は、変えられる。そういうところに原因があるのだろうか。外見は変えられないから言及してはいけない。しかし、内面は変えられるから、言及してよい。褒めてもよいし、批判してもよい。

でも、そんなに人間の内面って簡単なものだろうか。ポケモンのわざみたいに4つ充填できて、とっかえひっかえできるものなんだろうか。外見と同じくらい、肉体に張り付いて、そう簡単に変えられるものでもないと思う。

それなのに、内面のことについてはずけずけと話をするような気がする。外見のことにようやくデリカシーを持ち始めたが、内面に関してはまだ土足オッケーになっている。

そういうことが言いたいのではなくて、実は、外見と内面とにかかわらず、もっとうまい伝え方はないのかということを考えたかった。しかし、いつも思うのは、「うまい伝え方」というような、言語を使ったプログラムのコードのようなものは、いつだって存在しない。言語ゲームはそんなに単純にできていない。傷つき傷つける覚悟で突っ込むか、周りの環境までも読み取って整備していく必要がある。


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