第6章:カギムシを巡る論争
<2009年の論争―芋虫型幼虫とカギムシを巡って―>
2009年8月28日号の米国科学アカデミー紀要(PNAS)という著名な科学専門誌に掲載された博士の論文が、論争の対象となった。本論文では、
(i) カギムシのタンパク質をコードする遺伝子が芋虫型幼虫を有する昆虫類の幼生世代で発現し、形態や生理を決定づけている。
(ii) 成体で発現される遺伝子は本来の昆虫類のものであり、(i)から連続性を持って発現していることは、今日の分子生物学におけるゲノムのデータから検出されうる。
と考えている。要するに、芋虫型幼虫の起源は有爪動物カギムシに疑いなしというのである。
たとえば、鱗翅目のガSamia Cynthia、膜翅類のハバチDiprion similis、長翅類のシリアゲムシPanorpa spの芋虫型幼虫においては、体節や肢の数が異なっているが、これにはまずカンブリア紀のMicrodictyon spのような仮足類との雑種交配により、巨視的な芋虫の形態が上記昆虫類の子世代に転移され、その後で、変異による体節や肢の数の減少という、突然変異に基づく進化が起こったと考えるべき、と述べている。
また、特に完全変態を行う昆虫類においては、蛹化によって幼虫の体が一度液体化し、成虫原基を中心とした成体への大規模な変身が起こることから、前述の事項を含めて福数回の幼生転移が起こったと仮定すべきである、と述べている。
加えて、Microdictyonについては、胴体の刺の位置がカンブリア紀当時に生息したとされるXenusionやHallucinogeniaおよび現生の芋虫型幼虫と相同性が見られ、絶滅した太古の有爪動物ではこのような特徴が見られないことから、この動物を大元として幼生転移のあった見込みは高い、としている。
おそらく、化石情報より、上部石炭紀において、雑種形成は催されたのではないか、と博士は推測している。その成立の証明には、有爪動物の精包をゴキブリの雌の生殖孔にくっつけることで、受精卵が実際にできるかどうか確かめることで可能ではないか、と提案している。
ところが、同誌の2009年11月24日号にて、カナダのシモン・フレイザー大学のハート博士(かのウニとホヤの雑種形成実験を疑った科学者である)およびグロスバーグ博士による反論が掲載された。ゲノムサイズなどの分子生物学のデータを精査することで、幼生転移仮説は容易に否定できるという要旨になる。前置きから本論に至るまで、反論は成されたのだった。
フローサイトメトリーなどの手法で得られるC値(ハプロイドゲノムごとの全DNA量)より生物のゲノムサイズの比較ができるのだが、甲殻類根頭目とそのノープリウスおよびキプリス幼生の起源となるフジツボ類を比較したところ、前者はC=0.67 pgだったのに対し、後者ではC=0.74-2.60 pgとなった。幼生転移が起こったならば、ゲノムの移動が後者から前者に起こったわけで、当然そのサイズは前者が上でなければならないが、値は正反対となる。ゆえに、幼生転移は起こっていないと反論できる、と述べている。
次に、完全変態を営む昆虫類のゲノムは幼生世代を持たざる昆虫類よりも、そのゲノムサイズが小さくなることを指摘している。芋虫型幼虫を持たない昆虫類を見ると、ゴキブリ科(C=0.23-5.15 pg)、異翅類(C=0.18-6.15 pg)、トンボ類(C=0.37-2.20 pg)、直翅類(C=1.55-16.4 pg)、ゴキブリ科(C=0.23-5.15 pg)、ナナフシ目(C=1.95-8.00 pg)となる。一方、芋虫型幼虫を持つ昆虫類を見ると、甲虫目(C=0.16-5.02 pg)、双翅類(C=0.09-1.52 pg)、膜翅類(C=0.16-0.77 pg)、鱗翅目(C=0.29-1.94 pg)となる。確かに、前者の群の方が、ゲノムサイズは大きい。
更に、完全変態を営む昆虫類は遺伝子の数が比較的少ないことから、雑種形成による有爪動物の遺伝子の獲得は考えられない、と反論を展開している。完全変態を営む昆虫類5種を調べたが、前項と同じく、芋虫型幼虫なしの昆虫類よりも遺伝子の数は少なかった。5種のうちの2種であるセイヨウミツバチApis melliferaでは10.157 genes、コクヌストモドキ(Tribolium castaneum)では16.404 genesであるのに対し、後者に属するミジンコDaphinia pulexでは30.939 genes、マダニIxodes scapularisでは20.467 genesとのことである。
ゲノムサイズにおいても、有爪動物は完全変態を営む昆虫類よりも大きいとされている。カギムシEpiperipatus biolleyi(C=4.43 pg)および同じカギムシの一種Euperipatoides kanangrensis(C=6.88 pg)となっている。特に後者は、昆虫類全体と比較してもほぼ最大級とされている。
最後に、被嚢類のゲノムサイズは幼形綱のそれに類似しているため、オタマジャクシ幼生の獲得はなかったと反論している。これはウィリアムソン博士が先の論文で幼形綱のワカレオタマボヤOikopleura dioicaのゲノムサイズは被嚢類の三分の一であることを2001-02年のScience誌を引き合いにして述べたことに対するものであり、同じ被嚢類でも、カタユウレイボヤCiona intestinalis(C=0.20 pg)やナツメボヤ属Ascidia atra(C=0.16 pg)のみならずナツメボヤ科Phallusia mammillata(C=0.06 pg)といった種も存在し、オタマボヤOikopleura dioicaのC=0.07 pgと比較しても、幼生転移は考えられないとしている。
使用文献
Caterpillars evolved from onychophorans by hybridogenesis Donald I Williamson著 2009 (www.pnas.org/cgi/doi/10.1073/pnas.0908357106)
Caterpillars did not evolved from onychophorans by hybridogenesis Michael W.Hart, Richard K.Grosberg著 2009 (www.pnas.org/cgi/doi/10.1073/pnas.0910229106)